冬のオリンピックが終わってしまいました。日本人の活躍に興奮し、頑張ったけどメダルに届かなかった選手の努力に感動したりしました。
しかし、目を転じれば、コロナ禍は未だ収まらず、遠い国境では緊張が続いたままです。長引くコロナ渦が世代間対立の種になったり、また、学校に登校できなくなった多くの子どもたちが困難な状況におかれているといいます。
養老孟司氏「なぜコロナ禍で子どもたちは死にたがるのか?」:日経ビジネス電子版
解剖学者の養老孟司氏が、子どもたちは、学校に行くと救われているといいます。
もともと若い人にとって、大勢の人と一緒に何かをするというのは、生きがいです。それを奪われた形になったのです。(出所:日経ビジネス)
ノイズ化される子どもたち
「子どもにとって、生身の人間との接触は、生きる上で重要な意味を持ちます」と養老先生はいいます。
親と視線を合わせ、そのときの表情から、自分に対する関心や愛情を読み取る。そのようなことが、子どもが幸せに生きるうえで効いてきます。(出所:日経ビジネス)
一方で、コロナ渦によるステイホームの時間が長くなり、生身の人間をノイズと見なす大人と、子どもが一緒に過ごす時間が増えたことで、子どもたちの自殺が増えたのかと問われた養老先生は、「実際、子どもたちは、ノイズ扱いされているでしょう」といいます。
論語に学ぶ
君は君たり、臣は臣たり、父は父たり、子は子たり。
公曰わく、善いかな、信(まこと)に如(も)し君は君たらず、臣は臣たらず、父は父たらず、子は子たらざれば、粟(ぞく)有りと雖(いえど)も、吾得て諸(これ)を食らわんや、と。(「顔淵第十二」11)
孔子の言葉に「主君が主君の本分を、臣下は臣下の務めを、父親は家長の責任を、子女は家族としての勉めを、それぞれ果たす」とあります。
これは景公に「政」を問われ答えた言葉で、これを聞いた景公はひどく感心し、「本当にもし君主が君主らしくなく、臣下が臣下らしくなく、父親が父親らしくなく、子女が子女らしくなくなければ、たとい穀物があっても、それを食べて安心して暮らすことができようか」と答えたといいます。
くずる子も、それはそれで自然な振舞いで、それはノイズではなく、子の役割を果たしているのかもしれません。
公共の場所で、小さい子どもを泣かせないようにする、苦心する親たち。「周りに迷惑を掛けてはいけない」という無言の圧力。
「それはもう本当に、言い返したほうがいいと思います」と養老先生はいいます。
「人は生きているだけで、周りに迷惑をかけているのです。あなたも同じではないですか」と。それを昔は、「お互いさま」といいました。それがなくなってきてしまいました。(出所:日経ビジネス)
「皆さん、自分は独立して生きていると思っているから。本当は、お互いさまで生きているのに」といいます。
生きることのたいへんさ
人と関わりは生きがいにもなるが、大変なことだと養老先生はいいます。
「その大変さのほうを現代社会は重く見て、随分と人間関係を削ってきてしまいましたね。生身の人と面と向かって付き合うのが嫌だというか、好まれてない。それに拍車をかけているのが、おそらくネット社会です。つまり、情報のやりとりだけにとどめたい」と指摘します。
宗族(そうぞく)孝を称し、郷党(きょうとう) 弟を称す。
言えば必ず信、行なえば必ず果。硜硜然(こうこうぜん)として小人なるかな。抑々(そもそも)亦(また)以て次と為す可し、と。(「子路第十三」20)
「どういう人物をできる士と言えるのでしょうか」と、子貢が孔子に尋ねたときの言葉です。「一族から孝行者と褒められ、郷里の人々から先輩を立てると評判がいい者が「士」といえる。さらに、「言ったことはとにかく守ろうとし、行うときは必ず果たそうとするものも「士」といえるが、それではいささか形式的で型どおりの知識人ともいえる。それはなんとか第三順位ということであろう」との意味です。
孔子は良好な家族関係があってこそ、はじめて社会に出てからも活躍できるものと言います。
都市は意識の世界であり、意識は自然を排除する。つまり人工的な世界は、まさに不自然なのである。
ところが子どもは自然である。なぜなら設計図がなく、先行きがどうなるか、育ててみなければ、結果は不明である。そういう存在を意識は嫌う。意識的にはすべては「ああすれば、こうなる」でなければならない。そうはいかないのが、子どもという自然なのである。『遺言。』(新潮新書/2017年)
システム化された社会では、情報以外のものはすべて「ノイズ」と、養老先生は言います。例として、システム化された医療をあげて、「数字で測って出るデータ以外は、ノイズなのです」といい、「患者さん自身」はノイズといいます。「いらないのです。ノイズだから」…
コロナ渦が長引いています。子どもたちの学校生活時間の減少が気になります。その影響が将来、社会に現れることになるのでしょうか。少々心配になります。
やはり自然なことが基本で、人工的なものは少しずつ加えていくのがいいのではないでしょうか。こういうときだからこそ、自然を学び直すべきなのかもしれません。少し人工的に偏り過ぎているような気がします。