「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

ようやく達成された物価目標と置き去りにされた「生活」 ― 日中比較から見るこの「13年間」の歩み

「中国経済を『ソ連病』がむしばんでいる」──。日本経済新聞に掲載された興梠一郎・神田外大教授の指摘は、現代の国家経済が陥る深刻な罠を浮き彫りにしている。

「中国経済を『ソ連病』がむしばんでいる」興梠一郎・神田外大教授 - 日本経済新聞

中国は第15次5カ年計画において、AIでロボットを自律的に動かす「フィジカルAI」などの先端分野を未来産業と位置づけ、国家主導で資源と資金を集中させている。米中長期競争をにらみ、外側から見ればハイテク覇権をかけ、華々しく、元気に見える。しかし、その足元では内需拡大の具体策が乏しく、生活や仕事の現場では激しいミスマッチと生活苦が広がっているという。

東京財団主席研究員の柯隆氏が「政府が経済を統制し、官僚主義的に資源配分を行えば、市場の効率性が低下して経済は成長できなくなる」と指摘するように、国家の計画的発想が強まるほど、国民生活との乖離は深まる。この中国の構図は、決して他国の話ではないようだ。そのまま現在の日本経済の姿として、痛いほど重なって読めてくる。

日本の13年 ―「物価2%達成」の影で空洞化した暮らし

日本銀行が物価安定の目標(2%)を導入した2013年1月から、実に13年の歳月が流れた。そして日銀は、基調的な物価上昇率が目標と「おおむね整合的な水準となっている」との表明に踏み切った。

日銀、物価2%到達を表明「目標と整合的な水準」 金利は据え置き決定 - 日本経済新聞

だが、この13年間で何が起きたのか。巨額な資金や金融緩和を国家が注ぎ込んでも肝心の成長産業は育たず、むしろ長引く積極財政と異次元緩和によって円は毀損し、歴史的水準の円安となった。その結果生じた輸入インフレが、じわじわと国民の生活を追い詰めた。成長を伴わないまま、円安という歪んだ経路を経て、図らずも「物価目標の数字」だけが形骸的に達成されたのである。

権威主義国家の「計画経済」と、民主主義国家における「官製インフレ・官製成長戦略」。手法こそ違えど、国家の都合や成果指標(数字)が優先され、肝心の生活者の実感が置き去りにされるという本質において、日本もまた「現代型ソ連病」に蝕まれていたと言わざるを得ない。

市場の審判 ― 株価の熱狂と、長期金利上昇が告げる現実

ここで、『論語』の言葉が重く響く。

富にして求むべくんば、執鞭の士と雖も、吾も亦之を為ん。如し求むべからずんば、我が好む所に従わん。(「述而第七」11)

もし富や成果が、正当な道義の手段で求められるものなら下足番の仕事でも進んでやろう。しかし、不正や道理に外れた手段でしか得られないものであるならば、私は自分の信念の道に従うのみだと孔子は言いました。

国家がもたらした「物価目標の達成」や、国家主導の政策が生み出した歪みが、円の毀損や国民へのしわ寄せ(不義の政策)のうえに成り立っているのだとすれば、私たちはその数字の成果に酔うわけにはいかない。

市場は、国家が仕立てた「シナリオ」をそのまま鵜呑みにしているわけではない。この13年を振り返れば、そのことは明白だ。

期待を背景に株価は大幅に上昇した。しかし同時に、財政規律の弛緩やリスクを意識した長期金利もまた大幅に上昇し、「質への逃避」現象が示すように、市場は日本の国家財政と構造的脆弱さを冷徹に見つめ続けてきた。

「質への逃避」、日本の長期金利2.8%割れ ドイツ国債にも資金流入 - 日本経済新聞

柯隆氏が言う通り、市場による資源配分は、各々の構成員が真剣に最適化を図るからこそ効率的なのであり、国家が強権や誘導によってそれを歪めるとき、必ずやどこかに巨大なしわ寄せのツケが回る。

その結果として今の日本はどうなっているか。GDPの国際順位は6位へと後退し、ひとり当たりのGDPも下落の一途をたどり、各種の世界ランキングでも日本の存在感は低下し続けている。

何かを犠牲にする政策の果てに、私たちは本当の豊かさや安全を手に入れたと言えるのだろうか。

真の「日本らしさ」を取り戻すために

国家の巨大な予算や、作られた成長のナラティブに一喜一憂し、耐え続ける日々は、もう終わりにしなければならない。

いま問われているのは、「国家の数字や計画」の大きさではない。そこで暮らす一人ひとりの足元が満ち足りているかどうかという、原点への回帰である。

安全保障の強化という名目の下で平和国家の理念が揺らぎ、経済的困窮を背景にトクリュウなどの凶悪犯罪が蔓延、企業不正や不祥事が後を絶たず、その企業を狙ったサイバー攻撃は後を絶たず、個人情報の流出も止まらない。政治においても不祥事は繰り返され、信頼が失われていく。そして、豊かさを失った日本は、かつて世界が注目した輝きは薄れていく。

これらはすべて、私たちが「道義(まっとうな筋道)」を軽視し、国家の都合や目先の数字、効率という名の「不義の政策」を許容してきた結果ではなかろうか。

「日本らしさ」とは、ナショナリズムや、国家の巨大な統制による見せかけの強さではない。それは、目先の利益や不正な手段(不義)に頼ることではないはずだ。

未来へ向け「日本らしさ」をアップデートし、新たな「らしさ」紡ぎ出していかなければならない。それによってのみ、私たちは失いかけた信頼を回復させることができるのだろう。

 

 

「参考文書」

セブンやユニクロ…5年で1割超す値上げ 「物価上昇率2%」体感とずれ - 日本経済新聞

埋没しつつある日本を立て直すには…日本総研会長・寺島実郎さんが訴える「新たな民主主義」とは:東京新聞デジタル

 

 

【訃報】「あしたのジョー」のちばてつやさん ― 先達の「声」が消える時代に活況となる防衛産業

『あしたのジョー』などの名作で知られる漫画家のちばてつや氏が87歳で世を去りました。旧満州からの過酷な引き揚げや戦争体験を持つちば氏は、単なる政治的スローガンとしてではなく、「生の感触」から、平和への願いと戦争の悲惨さを描き続けてきた稀有な表現者でした。

実体的な記憶を宿した先達が一人、また一人と姿を消していく足元で、国内ではいま、対照的な光景が広がっています。

〈悼む〉ちばてつやさん「ある意味、命懸け」 入院するほど全力で描いた「あしたのジョー」…創作の原点は:東京新聞デジタル

政府の手厚い後押しを受け、次期戦闘機の開発や防衛用ドローンの増産、造船能力の強化など、防衛関連産業が活況を呈していると報じられています。かつての痛切な反省や悲劇の記憶が風化する中で、戦争や軍備という営みが「経済成長」や「産業振興」へと静かに置き換えられ、正当化されつつある現状に、深い危うさを覚えざるを得ません。

「戦前の反省どこへ」次期戦闘機開発、ドローン増産、造船再興…防衛関連産業の活況、その先にある不安:東京新聞デジタル

「戦争は二度と繰り返してはならない」という先達の切実な祈りは、なぜこれほどまでにあっけなく、国家や市場の論理の中に埋もれていってしまうのでしょうか。

不可視化される「生の感触」と、国家の「巨大な物語」

この歪みの根底にあるのは、戦争や安全保障が「GDPへの貢献」や「防衛力の強化」「安全保障上の危機」といった抽象的な言葉に言い換えられることで、その裏側にある「個人の命」や「暮らしの破壊」という人間としての痛みが不可視化されていくことです。

経済と国家のナラティブに奪われる「人間」

本来、軍備や軍事産業も、そこで生活する個人の平穏を守るための手段に過ぎないはずです。しかし、「政府広報(プロパガンダ)」と組み合わさるとき、危機の演出や産業振興という「国家の巨大な物語(ナラティブ)」が主役に躍り出ます。その結果、工場が設置される地域住民の懸念や有事の巻き添えリスク、あるいは国家が歩む方向性への疑問といった一人ひとりの声は、後回しにされ、その声はかき消されていきます。

「実体験の風化」につけ込む言葉

ちば氏が自伝的作品『ひねもすのたり日記』などで残した言葉(文)は、一貫して「人間は簡単に傷つき、死んでいく」という生々しい痛みに根ざしていました。

 体験者が世を去り、その言葉の重みが社会から失われていくにつれ、言葉は容易に空洞化します。「戦前の反省」という歴史の教訓は単なる記号に成り下がり、国家が提示する「防衛力強化」という心地よい物語に市民が疑いなく飲み込まれていく──これこそが、いま私たちが直面している危機の正体なのかもしれません。

『論語』の視座 ―「文を以て友を集め、友を以て仁を助く」

体験者の言葉が風化し、国家や経済の巨大な物語(防衛産業の活況や危機の強調)に個人が飲み込まれていく時代において、私たちはどのようにして人間性を保ち続けるべきなのでしょうか。

『論語』にはこうあります。の24に、その暗雲を払うような言葉が収められています。

曾子曰わく、君子は文を以て友を集め、友を以て仁を助く。(「顔淵第十二」24)

自律した人間=君子は、学問や言葉、表現や思想「文」を介して真の友を集め、その友との誠実な交わりを通して自らの人間性や思いやり「仁」を高め合っていく。

ここで示されているのは、権力や恐怖の煽り、あるいは「防衛」「ナショナリズム」といった同調圧力によって力づくで一丸とされる「同」の集まりではありません。言葉や対話(文)を通じて結ばれる、しなやかで主体的な人間同士の連帯が示されています。

ちばてつや氏が遺したのは、まさに漫画という「文」を通じて、見知らぬ他者と痛みや愛おしさを共有し、互いの「仁(人間的な温もり)」を呼び覚ますとものだったのではないでしょうか。

体験者の声が失われつつある今、私たちがなすべきは、国家が語る大きな物語に盲従することではなく、身近な地域や信頼できる場で、読書、表現、対話といった「文」を囲み、問いを共有し合える仲間(友)が集まること。国家の号令によらない「草の根の対話」が、個としての正気を保ち続けるための現実的な選択なのかもしれません。

イスラエル総選挙という審判、私たちが手繰り寄せる未来

国家の主導する物語に飲み込まれるのか、それとも市民一人ひとりが「文」を携えて問い直し続けるのか──この抗いの正念場は、いまや世界中の現場で同時多発的に繰り広げられています。

その象徴的な試練と言えるのが、緊迫の度を増す中で行われるイスラエルの総選挙です。

イスラエル総選挙、ネタニヤフ陣営が劣勢で膠着の見通し…ネタニヤフに打撃になる? | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

長引く戦火と絶え間ない緊張のなか、ネタニヤフ政権が掲げてきた「力による安全保障」と「対立の演出」に対して、市民はいかなる審判を下すのでしょうか。安全保障の危機を理由に異論を封じ込め、過激化を強めてきた政治に対し、市民が分断を超えて真の平穏と人間の対話のための答えを示せるのか。世界がその行方を固唾をのんで見守っています。

これは、決して遠い異国の出来事ではないのかもしれません。

戦前の反省を忘却し、防衛産業の活況や軍事化の波に言葉を失っていく日本社会の姿もまた、まったく同じ地平の問いに晒されているのではないでしょうか。

国家が「敵と味方」の分断を煽り、軍事化やプロパガンダの物語へと人々を誘導しようとするとき、私たちが流されるままの観客にとどまるのか、それとも足元で人と繋がり、主権者としての審判を下すのか。

ちばてつや氏をはじめとする先達が遺した切実な「文」を胸に刻み、身近な足元から言葉を交わし、互いの仁(人間性)を助け合う小さな連帯を紡いでいく ― これこそが、風化する記憶を未来へと継承し、世界的な政治の変質や軍事化の波を跳ね返す、最も確かでしなやかな歩みとなるのではないでしょうか。

 

世界に拡がる若者の「怒り」、すれ違う政治 ― 政治の変質、「広報・プロパガンダ」の影

インフレによる深刻な生活苦、AIの急速な浸透による雇用不安、拡大する政治不信、腐敗、そして収まらない戦争の影──。今、世界中で人々、とりわけ未来を担う若者たちが抱える閉塞感と怒りは、国境を越えて共通のうねりとなっているようです。

怒れる若者、米中間選挙に嵐呼ぶ 「AI・腐敗・戦争」SNSで増幅 - 日本経済新聞

パリ炎上、なぜここまで…デモを始めた高校生が訴える教育と貧困、「声を聞いてくれない」大人たちとの分断:東京新聞デジタル

米国の選挙戦を巡る動向や、年金改革に反対してパリの街を揺るがした大規模なデモ。そしてSNS(TikTokなど)を通じて感情や情報が一瞬で増幅・伝播していく現代のデジタル空間。背景には、「AIや経済の変革に取り残され、政治に声を聞いてもらえない」という剥奪感があるからなのかもしれません。

選挙や政治的衝突が相次ぐなかで、いま政治は、果たして人々の生活苦や未来の不安に真摯に向き合っているといえるのでしょうか。それとも、政権維持や対立を煽るための「演出」なのでしょうか。

不可視化される抗議 ― 暴徒化という「烙印」と日本の「自己責任論」

世界で沸騰する不満や怒りは、それぞれの国の社会構造によってまったく異なる形で処理され、あるいは隠蔽されています。そこでは、人々の抗議が政治の表舞台に届かないよう無力化されるという、共通の歪みがあるようです。

欧米型:運動の「暴力化烙印」によるすり替え

欧州などでは、生活を守るための抗議やデモが国境を越えてスピーディーに波及しやすい土壌があります。しかしその一方で、権力側や主要メディアによって、その運動そのものが「暴徒」や「暴力」のイメージへと意図的にすり替えられるリスクも常に孕んでいます。

上智大学の中野晃一教授が東京新聞の取材に対して指摘しているように、抗議の本質(生活苦や教育・雇用の分断への異議申し立て)から目を背けさせ、「危険な暴動」というレッテルを貼ることで、市民の正当な声を封じ込める操作が働いてしまうのです。

日本型:「自己責任論」の強烈な内面化による埋没

これに対し、日本国内の構図はより内省的かつ静かな形をとっています。

欧州のような国境を越えた大きなうねりが生まれにくいだけでなく、社会学者や政治学者が指摘するように、日本では「社会や政治の失敗をすべて個人の責任(自己責任論)」として内面化してしまいがちです。

物価高や生きづらさに直面しても、声を上げて連帯するどころか、「自分の稼ぎが悪いからだ」「自分が努力不足なのだ」と個人が内面へと不満を抱え込み、ひきこもりや絶望、あるいは静かな沈黙へと追い込まれていく。抗議のデモや反対の声があがっても、メディア報道ではすくい上げられず、社会の底流へと埋没させられてしまう——この構造的な抑圧こそが、日本における最大の病理ではないでしょうか。

表現の形や表出の仕方は違えど、米仏の「暴徒というすり替え」も、日本の「自己責任論による埋没」も、本質的には同じひとつの真実を物語っています。それは、「人々の切実な不満や正当な抗議が、支配構造にとって都合の悪いものとして、巧みに不可視化されている」という現実です。

「広報」と「プロパガンダ」の境界線──ロシアの沈黙と日本の兆候

人々の不満や抗議の声が不可視化されていく構造の先にあるもの──それは、広報や情報発信という名のもとに世論が意図的な方向へ導かれる、情報空間の変質です。

ロシアに見る「プロパガンダと沈黙」の現実

ロシアの現状に目を向ければ、徹底されたメディア統制と強烈な国家プロパガンダによって、国民の多くが異論を唱えることを諦め、「沈黙」を守らざるを得ない強権的な支配の現実が存在します。

ロシアの国民が抵抗しない理由とは…元キャスターのジャンナ・アガラコワ氏が語るプーチン支配の現実:東京新聞デジタル

元国営テレビのキャスターのジャンナ・アガラコワ氏が語るように、情報が歪められ、反対の声が力づくで抑え込まれる社会では、政治の暴走を止める手立ては失われていきます。

しかし、こうした「プロパガンダによる言論支配」は、決して遠い権威主義国家だけの特異な話とばかりは言えません。

民主主義社会における「広報10倍」の影

現代の民主主義社会においても、直接的な武力や弾圧ではなく、巨大な資金とメディア戦略(SNS等)を駆使して「ナラティブ(語り)」をコントロールする現代型の情報操作が巧妙に進行しています。

日本においても、内閣広報予算の概算要求額が従来の10倍規模に膨れ上がると報じられるなど、政府による情報発信のあり方とその変質に大きな関心が集まっています。

変わる“高市流”情報発信 内閣広報予算の概算要求額“10倍”に 政府広報と“プロパガンダ”の境界線は?【報道特集】 | TBS NEWS DIG (1ページ)

「国民への丁寧な広報」という名目の裏で、もし膨大な資金で世論誘導やプロパガンダのような境界線があいまいになっていくとすれば、それは重大な懸念材料と言わざるを得ません。

政治家の小沢一郎氏が「戦前の昭和史に似てきた」と警鐘を鳴らすように、ナショナリズムの演出や敵意の煽りによって国民の不満を一時的な熱狂へと吸収し、本質的な異論を打ち消していく手法は、かつて歴史が証明した危うい先祖返りの兆候とも言えます。

高市首相の「右翼ごっこ」に警鐘◇小沢一郎氏「戦前の昭和史に似てきた」と懸念示す【内外情勢調査会・講演詳報】:時事ドットコム

自らの不満を「自己責任」として飲み込ませる空気と、巨額の広報予算によって演出される安心や熱狂の物語──この両者が組み合わされたとき、民主主義社会もまた、実質的な言論の統制(ロシア化)へと静かに傾斜していくリスクを否定できないのではないでしょうか。

プロパガンダの拒絶 —「政治が変わる」とはどういうことか

政治の本来の目的とは、巧みな広報や演出によって権力を維持することではなく、そこで暮らす人々が平穏に生き、未来に安心を持てる社会を整えることにほかなりません。

しかし、膨大な広報予算によるナラティブのコントロールや、異論への「暴徒」の烙印、あるいは「自己責任論」の流布によって市民の不満を内面化させる手法が横行すれば、民主主義社会であっても実質的な言論の自由は奪われていきます。

私たちがどれほど個人の暮らしを守ろうとしても、こうした情報操作やプロパガンダをただ黙認し、受動的な沈黙を守るだけでは、政治の劣化をそのまま許容することになってしまいます。

『論語』には、このような言葉があります。

性、相近きなり。習い、相遠きなり。唯(ただ)上知(じょうち)と下愚(かぐ)とは移らず。(「陽貨第十七」2)

人の生まれつきの天性は互いに近いものだが、どのような環境に身を置き、どんな学びや行動(習慣)を重ねるかによって、大きく離れていくものである。ただ、この上なく賢い者と、この上なく愚かな者だけは、環境や習慣によって変わらないと孔子はいうのです。

欧米での抗議運動に向けられる「暴力のイメージ」というすり替えを見抜き、日本で内面化されがちな「自己責任論」という沈黙の罠を拒絶すること。官製の広報や演出された物語に流されず、「行動や抗議の本質」を正しく見極める学びと問い直しの習慣を重ねること──それこそが、私たちが主権者として歩み始めるための確かな足場となるはずです。

歪んだプロパガンダを拒絶し、問い直しの習慣を重ねたとき、果たして「政治が変わる」とは、一体どのような姿を指すのでしょうか。

他者が用意した演出の観客にとどまり、変化を諦めて沈黙を続けるのか。それとも、自らの思考と意思で政治のあり方を問い直し続けるのか。私たちが日々どのような「習慣」を選ぶのかというその姿勢そのものが、これからの民主主義の行方を決定づけているのかもしれません。

 

 

鈍い所得の伸び、増大する負担感 ―「一億総低流社会」という現実、揺らぐ経済成長の期待

「実質賃金がプラスに転じた」──そんな統計データがニュースとなって流れても、人々のマインドや生活実態の冷え込みが収まる気配はなそうだ。

平均給与487万円でも6割が低収入層に 日本型「一億総低流」の実像:日経ビジネス電子版

ガソリン代や電気・ガス代への膨大な補助金によって、消費者物価指数(CPI)を無理やりに押し下げて演出された「官製の実質賃金プラス」。その足元では、過去最高水準を更新し続けるエンゲル係数と、食料品・日用品の止まらないインフレが、人々の生活実態を容赦なく圧迫しています。

高市政権1年、家計のゆとり「官製」段階 補助金で実質賃金1%増 - 日本経済新聞

食料インフレ再燃、エンゲル係数は最高 家計をどう自衛? - 日本経済新聞

国の手厚い支援により統計上の改善が進む一方で、都心では単身者が人間らしい生活を送るには「最低でも年収450万円前後が必要」といわれています。真面目に働いても誰もが普通に暮らせないという歪みが顕在化しつつあるのでしょうか。なぜこれほどまでに生きづらさを感じ、将来への不透明感を拭いきれないのでしょうか。

それは単なる物価高や景気の波といった表面的な問題ではないのかもしれません。私たちが知らず知らずのうちに、「生きるためのあらゆる営みを市場とお金(外注)に依存せざるを得ず、稼いだお金でサービスを買い続けなければ生活が回らない構造」の中に置かれているからではないか──。そんな問いが、静かに浮かび上がってきます。

「経営三流・政治三流」の共犯関係、私たちが向き合う課題

「稼がなければ生きていけない」、こうした構造的問題点があるにもかかわらず、社会の舵取りを担うべき層には深刻な停滞が見られます。それが現場の努力に依存し続ける「経営三流」と先送りを重ねる「政治三流」の共犯関係といわれる構造です。

news.yahoo.co.jp

1. 価値創造を試行錯誤できない「経営三流」

日本の多くの経営陣は、本来果たすべき構造改革や新たな価値創造、そしてそれに見合う正当な報酬の支払いという責務を後回しにし続けてきた側面があります。

現場の真面目な労働者を「低賃金のパーツ」として繋ぎ止め、超低金利と円安という環境に甘えて「会社の見かけの利益」を取り繕う延命策を取り続けてきたのです。労働者に報いる報酬を支払う努力を放棄し、政府と一蓮托生となって実体のない「成長の夢」を語り続ける姿は、まさに経営不全表れと指摘されても仕方がありません。

2. 矛盾を対症療法で覆う「政治三流」

一方の政治もまた、根本的な構造改革やエネルギー構造の転換という本質的な課題から目を背け続けてきたのではないでしょうか。その顕著な例が高止まりする電気代やエネルギー価格の問題です。

歴史的な円安の定着。エネルギーや資材を海外に依存することによる「実需の円安」と輸入物価高騰──。この歪んだ悪循環に対し、政治が提示したのは構造転換ではなく、将来世代へのつけ回しである膨大なバラマキ補助金と財政の拡大(国債依存)でした。政策の矛盾を黙認し、対症療法の官製ドーピングでその場を凌ぐ姿勢は、疑問を呈せざるを得ず、三流政治と呼ばれても不思議ではありません(世界的な傾向のようですが)。

3. 米国と異なる「財源なき日本」の悲劇

市場の歪みやAIによる労働淘汰に対し、米国ではテック企業がもたらす莫大な資本収益を背景に「UBC(ユニバーサル・ベーシック・キャピタル)」のような公的・自発的分配の議論が現実味を帯びています。

マスク、スペースX株を全米の子どもに1株ずつ贈与と発言──「ユニバーサル・ベーシック・キャピタル」とは | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)

しかし、日本がそのモデルをそのまま模倣することはきわめて困難ではないでしょうか。慢性的な「デジタル赤字」を抱え、エネルギーと食料の多くを海外に依存する構造下では、国民全員に持続的な資本分配を行えるだけの原資すら乏しいのが現実です(AI税などの新税制を模索する議論もありますが、実現へのハードルは非常に高いと言えます)。

note.com

経営や政治の不全のツケが、働く人の低賃金と物価高という形で支払われている現実の中で、私たちは国家や企業の施し(賃上げや公的分配)をただ待つことの限界を、突きつけられているのではないでしょうか。

「外注依存のループ」を問い直す

国家の財源にも限界があり、経営陣もまた十分な賃上げの原資を生み出せない――そうしたが行き詰まりの中で、私たちはただ指をくわえて「一億総低流化」に呑み込まれていくしかないのでしょうか。

山で暮らすとは、自分の生きる力と向き合うこと|最所あさみ

この逃げ場のない閉塞感に対し、思考の転換点を提示しているのが、「知性ある消費」を提唱する最所あさみ氏による「山で暮らすとは、自分の生きる力と向き合い直すこと」という洞察です。

現代社会において「いかに稼ぐか」に縛られるのは、私たちが社会の高度化と引き換えに「自分ではできないこと」を増やし続けてきたツケを払っているからにほかならないといいます。

資本主義のシステムは、効率化の名のもとに人間に「専門技能(パーツとしての機能)」だけを研ぎ澄ませることを求めてきました。そして、高度化が進む現代においては、その代償として、食を得ること、身の回りのものを手入れすること、生活を工夫し身を守ることといった、人間としての根本的な「生きる技」を削ぎ落としているのだというのです。より多く稼ぐために....

そのためには、生活のすべてを市場からお金で買い(外注し)続けなければならない。そして、そのお金を稼ぐために、どれほど低賃金で理不尽な環境であっても、組織の「パーツ」として自らの時間を売り渡し続けなければならない──。

最所氏が喝破したこの「外注依存のループ」生きるために働き、働くために生活のすべてをお金で外注せざるを得ないというループこそ、私たちが囚われている金銭的捕獲の正体なのかもしれません。

ならば、この構造に対する最も静かで力強い抵抗とは何なのでしょうか。

それは、何も派手な社会運動を起こすことではなありません。地方へ移住することや自給自足の生活に逃避することでもありません。「身の回りの営みの手綱を、少しずつ自前(自分の手)に取り戻すこと」ではないでしょうか。

生活の基本を自らの手に引き戻し、お金に頼らずとも生きていける領域(個の強さ)を自分の中に広げていくこと。それは、行き詰まった仕組みや他者への過剰な依存から抜け出し、生の手綱を自身の手に手繰り寄せるための、しなやかな一歩となるはずです。「都合の良いパーツにはならない」という意志表示でもあるのです。

まとめ

この「パーツ化された現代人」の生き方を見つめ直すヒントは、現代の経済論だけでなく、『論語』の教えにもみることができます。

達巷党(たっこうとう)の人曰く、大なるかな孔子、博く学びて名を成す所なし。
子 之を聞き、門弟子に謂いて曰く、「吾はをか執(と)らん。御(ぎょ)を執らんか、射(しゃ)を執らんか。吾は御を執らん」と。(「子罕第九」2

ある村人が「孔子はなんと偉大なのだろう。幅広く学んでおられるが、特定の専門家としての『名(肩書)』が立っていない」と評した。これを聞いた孔子は、弟子たちに「私は何の専門家になろうか。弓術家になろうか、それとも馬車の運転手になろうか。……まあ、一番下っ端の運転手(御)にでもなるとしようか」といいました。

「〇〇のスペシャリスト」や「組織の役職」として、特定市場の値付けに収まるようでは、人間としてまだまだ器が狭い。孔子は自虐的なユーモアを交えて、「専門パーツとして評価されることの下らなさ」を軽やかに笑い飛ばしたのでした。

これは為政第二にある「子曰わく、君子は器にあらず」(「君子」=自律した人間とは、特定の機能や用途にしか使えない「器(道具・専門家)」であってはならない)と共鳴しています。

産業革命以降の資本主義は、人間をどこまでも使い勝手の良い「便利な器」として教育し、評価してきました。「〇〇の専門家」「大手企業の〇〇職」という肩書や値付け(名)を与え、その器としての枠組みに閉じ込めてきました。

しかし、孔子は、達巷の村人が求めたような「特定の専門家(器)としての名」など、端から必要ないとし、生活の手綱を自力で握り、自立して生を回していくことこそが、人間の本来の力だといわんとしているのでしょう。

国の手厚い支援や、三流の経営が描く「成長の夢」にいつまでも依存し続ける必要はあるのでしょうか。

肩書や評価といった「他者が用意した器」に自らを合わせる生き方を手放し、自分の生を自力で回していくという誇り、そして自分らしさを、もう一度取り戻すことはできないでしょうか。

何者でもない自分に戻り、生活の手綱を自らの手で軽やかに握り直すとき──私たちは、この「一億総低流社会」という閉塞した構造のなかで、本当の意味で「自律した個人」としての歩みを始めることができるのかもしれません。

 

 

「参考文書」

9月の消費者物価2.1%上昇、9カ月ぶり2%超 食品や日用品が押し上げ - 日本経済新聞

 

現実はこの逆かもしれませんね

 

AIがもたらした新冷戦、株価上昇、労働の変容 ― 米中間戦後のAIラリー第二幕ではどんな変化があるのか

世界はいま、AIを主戦場とした新たな地政学的緊張——「AI新冷戦」のただ中にある。

すべての企業が影響を受ける、AI冷戦の始まり | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)

米国と中国を中心とする覇権争いは、単なる先端技術の覇権争いを超え、国家の産業基盤そのものを書き換える規模へと拡大した。株式市場において半導体やAIインフラ関連株が爆上がりを見せてきたのは、これが単なる一過性のテーマ株相場ではなく、「産業革命に匹敵する構造転換の現実味」を市場が強烈に織り込んできたからにほかならない。

この裏側で、労働の現場では静かで不可逆な地殻変動が進行している。

企業の初級プログラマー、カスタマーサポート、さらにはバックオフィスのホワイトカラーに至るまで、これまで「ホワイトカラーの登竜門」とされてきた定型的な知的労働が急速に消滅しつつある。AIの進化はブルーカラーの自動化にとどまらず、中間層を形づくってきた頭脳労働の領域を先になぎ倒した。

しかし、足元の市場は一筋縄ではいかない。GPUを担保にした過剰な融資レバレッジの調整(いわゆるコアウィーブ・ショック)や、米中間選挙に向けたAI規制を巡る政局の警戒感から、一時的な足踏みを見せている。

はたして、この足踏みはバブルの終わりの始まりなのか。それとも、さらなる巨大な躍進に向けた「静かな助走」に過ぎないのだろうか。

米中間選挙というイベント、2つのシナリオ──成長主導か、規律・分配主導か

2026年米中間選挙は、短期的な市場のボラティリティを生む最大の変数である。しかし、共和党・民主党のどちらが勝つにせよ、それは「AIの進化を止めるか否か」の分岐点ではない。「どのような経路をたどってAI資本主義の次章へ進むか」の違いに過ぎないのであろう。

①民主党勝利シナリオ──「規律・配分主導型ラリー」

長引く中東情勢や物価高を背景に有権者の不満が根強く、上院と下院の両方で民主党が勢力を伸ばすとの見方が大勢のようだ。

コアウィーブ株価急落は序章か AI規制「民主党ショック」の現実味:日経ビジネス電子版

民主党が勝利した場合、市場は一時的な「民主党ショック」に直面する可能性があるといわれる。

データセンターの消費電力・環境負荷規制、AI安全性の義務付け、独占禁止法による巨大テックへの追及懸念が先行し、株価は短期的な調整を余儀なくされる。しかし、政治的不確実性が通過した後は、単なるインフラ投資から「現場での実用・フィジカルAIによる企業生産性向上」を好感、質的再評価のラリーへと回帰すると予測される。

②共和党勝利シナリオ──「規制フリー・成長主導型ラリー」

共和党が上下両院で勝利するシナリオでは、市場にとって最も分かりやすい直接的追い風が吹くのだろう。

AI開発に対する過度な規制を回避し、法人税減税の維持、そしてデータセンター建設に必要な電力インフラ確保が優先(規制緩和)され、これにより、一時的に停滞していたメガテックや半導体株へ直接的な買いが集中し、株式市場を押し上げることになるかもしれない。

 どちらの党が勝利しようとも「経路の違い」があるだけで、市場と社会はAIの次の新しいステージへと引き込まれていくことになるのではなかろうか。

AIラリー第二幕

AIラリー第一幕の主役は、GPUやデータセンター、半導体メーカーを中心とした「インフラ整備と金融レバレッジ(過剰な融資)の過熱」であった。コアウィーブ・ショックに代表される調整は、この第一幕の膿を出し、実体に伴わない過剰な投機を清算する不可避のプロセスに過ぎない。

「AIラリー再開」7割 第二幕は中間選挙後に - 日本経済新聞

対して、これから始まる第二幕の主役は、「AIの現場実装、圧倒的な生産性向上、そしてそれによって生じる富の社会循環」ではなかろうか。

ここでは、「労働」の消滅がいよいよ本格的な社会現象として具現化するのかもしれない。ホワイトカラーの初級職や定型業務がAIに代替されていくスピードは止まず、こうした中で、社会の議論は「いかに雇用を守るか」という古い防衛戦から、「AIが生み出す途方もない富をいかに社会に循環させ、持続可能なインフラに昇華させるか」という新しいステージへと移行するのかもしれない。

イーロン・マスクやサム・アルトマン、そしてAnthropicのダリオ・アモデイCEOらが異口同音に主張するUBC(ユニバーサル・ベーシック・キャピタル)という社会還元だ。彼らがその導入を目指すのは、この「労働の変容」が避けて通れない現実であることを誰よりも知っているからではなかろうか。

マスク、スペースX株を全米の子どもに1株ずつ贈与と発言──「ユニバーサル・ベーシック・キャピタル」とは | Forbes JAPAN 公式サイト(フォーブス ジャパン)

UBCはもはや理想論でも手厚い福祉でもない。AIの普及と活用の進展が止まらない世界において、蒸発する仕事による社会の崩壊を防ぎ、AIの成長の成果を広く分配するための「不可避な社会システム」として機能するのだろう。

資本主義の新たな均衡点

こうした「AIによる富の成長とUBCという循環構造」を織り込む新しい社会への移行が中間選挙後のAIラリー第二幕なのかもしれない。

◎予測されるシナリオ

  • 民主党勝利の場合:「AI税」や「データ権益」を通じた「政策的・公的強制型UBC」が推進され、AI企業が生み出す膨大な富の一部を国家が公的ファンドへ直接吸い上げ、市民へ分配する構造が定着していく。ギャビン・ニューサム・カリフォルニア州知事による知事やバーニー・サンダース上院議員の主張、さらにはAnthropicのダリオ・アモデイCEOらの呼びかけが法制度として具現化する。
  • 共和党勝利の場合:民主党的な「AI税」や「過剰な資産再分配」を代替として、イーロン・マスクやOpenAIのサム・アルトマンらテックリーダー主導のもと、「民間主導・市場自発型UBC」が加速する。彼らは過度な社会批判(バッシング)をかわす安全弁として、自社株や専用ファンドの持分を一般市民へ還元する仕組みを自発的に提示していく。

この大きな構造転換が私たちに突きつけている本質的な問いとは何か。

産業革命以降の資本主義は、人間を工場やオフィスの「特定のパーツ(単なる労働力)」として効率化してきた。人間は組織や市場に適合するための機能として生きることを強いられ、その対価としての賃金で生存を維持してきたのである。

1日に3時間働けば、十分に生きていける社会がやってくる あなたの仕事は「クソどうでもいい」 | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)

しかし、AIの圧倒的な台頭とUBCの確立は、人間を「単なる労働力」という長年の束縛から解き放つ。食うための不本意な労働から解放された人間は、自らの思想と倫理に基づいて生きる「自律した個人」へと促されることになるのではなかろうか。

 

生存のための時間が不要になったとき、私たちは自らの人生をいかに生きるべきなのか。その答えの指針となるのが、『論語』の中にある。

道に志し、徳に拠り、仁に依り、芸に遊ぶ。(「述而第七」6)

理想への志(道)を掲げ、誠実な人間的成熟(徳)を足場とし、他者への深い思いやり(仁)に心を寄せ、そして真の探求や創造、芸術の楽しさ(芸)の中に自由に身を置くこと――。

「パーツとしての労働」を終えた人類が向かうべきは、かつて古典が提示したこの豊かな生き方の実践にほかならないのだろう。

政治と市場の喧噪を超えた先に立ち現れるもの。それは、AIという鏡によって「何のために生きるのか」を自らに問い直し、自律した個人として誇り高く歩み出す、新しい人間の時代なのではなかろうか。

 

 

先進国共通のポピュリズムの罠と「財政民主主義」の末期症状

アナリストの中空麻奈氏は、フランスの深まる混迷と政治的空転を考察し、きわめて冷徹で本質的な問いを提起している。

国民が変われるか|中空麻奈(かんぽ生命保険エグゼクティブ・フェロー)

「何があれば、フランスはターンアラウンドを迎えるか。……それなりに人気がある政治家が財政健全化に舵を切り、バランス良く導いてくれることが一般的には望ましい。そのためには、国民が変わって、多少の痛みがあっても国として正しい方向を目指す政治を選ぶ必要がある。国民が変われないのなら、世界は行きつくところまで行くしかない。それがデフォルトなのか、戦争なのか、欧州分裂なのか。」(引用:国民が変われるか|中空麻奈)

この指摘は、単にフランスやドイツといった欧州一国の政治不全を語ったものではないのだろう。日本を含む先進民主主義国全体が陥っている「財政民主主義の末期症状」と「ポピュリズムの罠」を指摘しているようである。

「甘い耳ざわり」を要求する主権者と政治の共犯関係

このブログにおいても、「言論による合意形成」を捨て、「数の力(ポピュリズム)」で強行突破を図ろうとする政治家の不徳(不孫)と軽量化を指摘してきた。しかし、コインの裏側には、「耳に痛い真実」を語る政治家を淘汰し、負担なき給付や減税という耳ざわりのよいことばかりを要求し続けてきた国民側の「奢り」も存在する。

財政再建や構造改革といった「痛みを伴う正しさ」を提示した途端、政治家は選挙で失脚し、誰がトップに立っても「不人気」となり辞任を繰り返す。人気を得るためにはポピュリズムを振りかざす以外に道が残されていないのだとすれば、政治の劣化は政治家個人の不徳にとどまらず、国民と政治が作り上げた共犯関係の結末と言わざるを得ないのかもしれない。

「奢り」の代償

『論語』述而第七において、孔子は「奢れば則ち不孫、倹なれば則ち固。その固からんよりは、寧ろ不孫ならん」と述べ、身の丈を超えた拡大や贅沢(奢り)が、いかに人の傲慢と増長を引き起こすかを警告した。

国家が膨大な債務を抱え、エネルギーやインフレの物理的限界に直面しているにもかかわらず、「負担は拒否するがサービスは要求する」という姿勢は、まさに主権者の側の「不孫(奢り)」の極致である。

また、孔子は『論語』顔淵第十二において、国家の存立基盤として「信(信頼)」を最上位に置いた。政治が正しさを語らず、国民もまた正しさから目を背ける時、政治と民の間の「信」は崩壊する。信頼を失った社会に残されるのは、過激な暴動やデモ、深夜にまで及ぶ泥沼化した議会、そして市場による「高金利」ということだけなのであろう。

 新しい「アンシャン=レジーム」の破綻

中空氏が示唆するように、私たちは今、無制限の債務拡大と低金利、そして表面的な成長に依存し、分断化された「旧体制(アンシャン=レジーム)」の終わりに立っているのかもしれない。

「国民が変われない」まま、無責任なポピュリズムと現実逃避を続けるならば、待っているのは市場(金利やインフレ)や物理的限界による不可避で壊滅的な強制リセット——デフォルト、市場の乱高下、あるいは戦争、社会の分裂——でしかない。

しかし、もし私たちが「新しい社会への展望」を切り拓こうとするならば、必要なのは奇策や新しいスローガンではないのだろう。

国民が「耳に痛い真実」に向き合う覚悟を持ち、政治に対して「身の丈」と「誠実な言葉」を厳しく求める意識の転換である。

「政治は国民の鏡」という言葉がある。

世界が行き着くところまで行ってしまう前に、私たちがポピュリズムの呪縛を断ち切り、「政とは正なり」という原点に立ち返ることができるか。現代機構の崩壊の縁において、真に試されているのは、他ならぬ私たち主権者自身の「人間力」と「倫理」なのかもしれない。

 

 

フランスで過激化する物価高抗議、米国では「ノー・キングス」デモ拡大 — 政治の漂流、壊れた信頼

狂乱の「数の政治」が招く漂流:世界同時デモと『論語』が問う「政とは正なり」の真義

米国では「ノー・キングス」デモが全米各地に広がっている。大西洋をはさんだフランスでは全土で物価高に抗議デモがわき起こり、激化した暴徒が略奪や放火に発展している。

www.afpbb.com

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日本に目を向ければ、簗農水大臣による「支援の有無による予算配分」暴言からの辞任劇、そして埼玉県議会や福岡県議会で見られた深夜・未明に及ぶ暴言や金銭授受疑惑を巡る泥沼の懲罰劇——。

金銭授受疑惑で百条委設置 未明に議案可決―福岡県議会:時事ドットコム

<埼玉県議会>質疑中に「ばか」…言われた県議は椅子を机に当てる 会期を延長、午前0時過ぎから本会議 午前5時54分に閉会 田村、井上の両県議の処分要求と懲罰動議を審査 双方が陳謝文(埼玉新聞) - Yahoo!ニュース

簗和生氏から消えた3万票…焦りが生んだ?予算カット発言に地元は「こんなことでは国が腐る」:東京新聞デジタル

世界で同時多発的に発生しているこれらの混迷は、単なる個別の不祥事や一時的な政局のノイズではないのだろう。政治が本来果たすべき「言論による丁寧な合意形成」を自ら放棄し、「数の力(ポピュリズム)」で力任せに押し切ろうとする政治の結果であり、ガバナンスの崩壊なのであろう。

「数の奢り」が生む言論の幼稚園化

なぜ、日米仏の政治はこれほどまでに脆く、泥沼化したのか。

「数の力」への過剰な依存と対話の空疎化がないだろうか。政権や議会で過半数(数)を握りさえすれば、野党や反対派市民との論議、事前の丁寧な説明や合意形成のプロセスは結果として「非効率」として省かれる。しかし、言論による合意という「正しさ」の手続きを欠いた強行突破は、国民の「信」という基礎を欠いているため、ひとたび疑惑や批判が噴出するや否や耐えきれず、数日・数ヶ月での辞任という極度の「政治の軽量化」を引き起こしている。

言論の「パフォーマンス化」も著しい。政策の倫理や将来像を競う論争ではなく、「ばか」発言(埼玉県議会)、身内の庇い立てや面子の潰し合いといった、小学生以下の感情的な応酬へと退行している。SNSの反応を意識したパフォーマンスが蔓延し、関心の奪い合いと化し、誠実な言葉で国民を納得させる政治家個人の「人間力」は蒸発したかのようである。

正しさを求めない政治の行き着く先

政策の正当性や倫理を追求することをやめ、ただ「数の力」だけで押し切る政治の行き着く先は何か。それが、世界各地で湧き上がる民衆の怒りと抗議の奔流ではなかろうか。

インフレや実質賃金低下によって日々の生活が脅かされる中、政治の側が「数」に奢り、利権や面子に執着する姿に、国民の不信は限界に達し、絶望に達していく。米仏での大規模デモや日本国内での抗議運動は、言葉による合意形成を拒絶した政治に対し、市民が突きつけた「不信の自然な回答」にほかならないのだろう。

「政とは正なり」政治の原点

こうした言論不全と人間力の欠落に対し、『論語』はこう諭す。

季康子、政を孔子に問う。孔子対えて曰く、政とは正なり。子率いるに正を以てすれば、孰か敢えて正からざらん。(「顔淵第十二」17)

季康子が政治とは何かと孔子に問うた。「政治(政)とは、正しさ(正)そのものです。リーダーであるあなたが自ら正しさを以て先頭に立てば、誰が敢えて不正を行おうか」と孔子は言いました。

「政(まつりごと)」とは「正(正しさ・道義)」。単に数を集めて権力を振りかざすことは政治ではないのだ。正しさを自ら追い求め実践し、言葉をもって誠実に合意を形成していくことこそが「政」の本義なのだ。

いま起きている事象のすべては、政治家たちが「正」を追うことをやめ、手っ取り早い「数」と「内輪の都合」に逃げ込んだことへの、清算にほかならないのだろう。

「人間力」の復権と「信」の再構築

現代のあらゆる不全は、「身の丈を超えた肥大化への固執」、「正しさよりも『数や声の大きさ』を優先する姿勢」から生じているのではないのか。

「数のポピュリズム」から「言論」と「人間力」の政治へ。政治家が個人の人間力を磨き、「政とは正なり」という原点に立ち返って誠実な対話(合意形成)を重ねない限り、国民との間に「信頼」が再生されることはなく、国家や自治体の漂流は止まらないのだろう。

私たちが今求めているのは、過激なパフォーマンスや「数の力」ではない。言論によって現実と誠実に向き合い、道義を以て先頭に立つリーダーの「人間力」の復権であり、平和で安寧な社会ではないだろうか。

 

 

「参考文書」

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