哀公(あいこう) 有若(ゆうじゃく)に問いて曰わく、年饑(う)えて用足らず。之を如何せん、と。有若対(こた)えて曰わく、盍(なん)ぞ徹せざらんや、と。
曰わく、二も吾猶足らず。之を如何ぞ其れ徹せんや、と。対えて曰わく、百姓足らば、君 孰(たれ)と与(とも)にか足らざらん。百姓足らずんば、君 孰と与にか足らん、と。(「顔淵第十二」9)
(解説)
哀公が有若に尋ねた。「近ごろ不作で費用が不足だ。どうすればよかろう」と。有若は答えた。「どうして税率を十分の一になされませぬか」と。
哀公は言った。「十分の二の税でも不足なのに、それをどうして十分の一に下げられようか」と。有若は答えた。「もし民の生活が十分でありますならば、君上はだれと不十分となるのではありましょうか。もし民の生活が不十分でありますならば、君上はだれと十分となるのでありましょうか」と。」(論語 加地伸行)
「徹」とは、収穫に対する1割の税率で、徹法と称し、周王朝の下、通率とした。しかし、魯国では、宣公15年のとき、十分の二 2割に変え、以後、それが魯国の定法となり重税であったといわれる。徹法の中身は諸説があると加地は解説する。
「哀公」、魯の国の君主、前494年から前467年まで在位。孔子58歳のときに君主になったといわれる。「哀」は若しく亡くなった時の諡(おくりな)。
若き「哀公」は、この「論語」に幾たびか登場し、孔子やその弟子たちに問いかけ、質問をする。
「有子」、孔子の13歳年少の弟子。有若の尊称が有子。記憶力に優れ、その容貌は孔子に似ていたため、師の没後弟子たちによって孔子の身代りとして仕えられたという。
また、勇気があったといも言われる。攻めてきた呉軍が魯軍に夜襲をしかけたとき、魯軍は志願兵を募ったという。この志願兵には、士が700人、卒が300人にいたという。有子は、卒300人の内の一人といわれる。
(参考文献)