子曰わく、君子は食に飽くるを求むることなく、居(お)るに安きを求むること無し。
事に敏に、言に慎み、有道に就きて正す。
学を好むと謂う可(べ)きのみ。 (「学而第一」14)
(意味)
君子 教養人は腹いっぱいの美食を求めたり、豪華で心地よい邸宅に住みたいなどとは思わない。
なすべき仕事はすばやくこなす。しかし、言葉は少なくして出しゃばらない。もし意見があれば、まずは優れた人格者を訪れ、正していただくようにする。
孔子が生きた古代から、酒池肉林にふけり暴飲暴食する輩がいたという。2500年の時を経ても人の欲求には大きな変化がないということであろうか。
古代より中国では、暴飲暴食は悪徳され、それにふける特権者は暴君とされたという。
当時、先進国であったはずの中国が、今のような姿であることを思うと、色々と考えさせられることがある。
「飽食安居」、「行動の敏捷」、「発言の慎重」とそれに続く「有道に正す」をどう解釈するか、桑原は、この列挙された諸実践がすなわち学問という。
しかし、それでは学問ということの深遠さが認められないことになるのではないかと疑問も投げかける。
一方、孔子の教えはいつも抽象論ではなく、「実践」の学であるから、学問をする人の態度と学問の内容とは相即するとみていいのではなかろうかともいう。
「君子は言に訥(とつ)にして、行ないに敏ならんことを欲す」(「里仁第四」24)
と、常に孔子は実践における決断の尊さを説く。
学問を好むというのは、理論を無視するのでは決してないが、それを内的にもてあそぶことではなく、理論をつつんで外にあらわれる自己の行動が道にかなっているかどうかを省察することだとするのである。 (論語 桑原武夫)
桑原の解説を読むと、なぜか現代のクリエイターの姿が浮かぶ。
コロナ前までは、「クリエイター」、「スペシャリスト」、「バックオフィス」など様々な働き方があるといわれれていた。
まだまだ長続きしそうなコロナ渦。
「これからどう生きるのか」ということが関心事になったりする。
これからのキャリアを考えるとき、この章が参考になるのかもしれない。
孔子には、特権者たちの虚飾やぜいたくに対する強い倫理的反感があったといわれる。
弟子の子路に「発憤して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らず示爾」(「述而第七」18)と自身のことをいい、そこから好学心の強さを垣間見ることができる。
孔子の弟子の顔回も、「好学の士」と呼べる人物なのであろう。貧しい単純生活をしながら学問を楽しんでいたという。孔子はその顔回を称賛するが、その単純生活を特に推奨したわけではないという。
孔子や顔回の単純生活には「楽しみ」といいうるだけの独特のスタイルが単純のうちにあったに違いないと桑原は指摘する。
今の時代の「ミニマリスト」たちにも通ずるものがあるということだろうか。
(参考文献)