季氏 周公より富む。而(しか)るに求や之が為めに聚斂(しゅうれん)して之に附益(ふえき)す。子曰わく、吾が徒に非(あら)ず。小子(しょうし)鼓を鳴らして之を攻むるも、可なり。(「先進第十一」17)
(解説)
季子は周公よりも豊かであった。にもかかわらず、冉求は季子のために税を多く取り立て、季子をさらに富ませていた。孔子はいった。「もはや私の仲間ではない。弟子たちよ、まっこうからその罪を声(な)らして攻めてよいぞ」と。」(論語 加地伸行)
「季子」は魯国の実力者で、三桓氏のひとつ。
「周公」は、周王朝を建てた武王の弟周公旦ではなく、孔子と同時代のころに任ぜられた周公のことをいう。格は公爵で、天子に対して周公と諸侯は同格。天子の領地、財産等を管理、運営する長官で、天子の領地の一部を知行所としていた。
「鼓」は、戦闘開始や前進の合図に使う。退却のときは鐘であった。「鼓」は音が響き続け、「鐘」は音が収まる。その相違によって使い分けたといわれる。
「季子」は、魯君の臣下(家臣)であるから、天子からみれば陪臣である。冉求は、さらに季子の臣であった。冉求の行為は季子に対して「忠」とみえるが、魯君に対して「不忠」となる。そうであれば、結局季子への「不忠」にもつながる。
「冉求」は孔門十哲の一人と言われる。字名は子有。「冉有」とも呼ばれる。孔子が晩年魯国に帰国した後、冉求は季子の臣となったといわれる。
(参考文献)