「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

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その常識を疑え!異端であれ【異端を攻むるは、斯れ害あるのみ】 Vol.36

  

 子曰わく、異端を攻(おさ)むるは、斯れ害あるのみ。(「為政第二」16)

  

(意味)

「異端の学習に専念するのは、害があるのみぞ。」論語 加地伸行

 

 桑原は、「この章は難解で、多くのよみがあって、定説がない」といっている。桑原は仁斎の説にしたがうとする。

仁斎は、これは当時の方語つまり俗語であって、ものの端がまちまちで一つに揃わぬこと、としている。それを揃えにかかっても害があるばかりだ。学問は根本に力を集中すべきで、そうすれば端のほうは自然にととのってくる、という教えだとする。清朝の戴震は、ものには織物のように両方の端がある。学問は一つに打ち込むと成功するが、一度に両端から別々の学問をすると、ものにならない、とよんでいる。貝塚氏は、これを発展させて、織物の両端から一度に巻き始めると害しかない、と解している。

 孔子を、セルヴェトゥスを殺しカルヴィン風のリゴリストととれば、正統に背く「異端」、つまり異説を唱える者は、天下に害を流すばかりだ。処断してもよい、いやそれこそ天下のためである、というよみもありうるかもしれない。そうよめば、孔子が少政卯を誅したという俗説の説明にはなるであろう。私自身は、そうした西欧風のよみにはくみしたくはないけれども。 (論語 桑原武夫

 桑原はそういうけれど、現代の私たちには西欧風な解釈のほうが自然なのかもしれない。もっと大胆にいうことが許されるのなら、思想界のイノベーターである孔子自身もまた異説を唱える異端児であったのではなかろうか。それがあってかは知らぬが実際に長い労苦の時間を過ごしている。そうした孔子が皮肉まじりに唱えたとは言えないだろうか。そう考えると、仁斎がいう、『学問は根本に力を集中すべきで、そうすれば端のほうは自然にととのってくる』、の意味もまた理解できる。 

 

 

 桑原によれば、新注は、「異端」を聖人の道に外れて別に一派をなすもの、つまり、楊朱とか墨翟(墨子)のような学説ととるという。

 しかし、孔子の時代にはまだ諸子百家の説は現れていない。「諸子」とは、孔子老子荘子墨子孟子荀子などの人物を指し、「百家」は儒家道家墨家、名家、法家、兵家などの学派を指す。

 

 異端邪説

「異端」とは、正統でなく、正道に反する教説のことを意味する。また思想・信仰・学説などで、多数の人に一般的に受け入れられた正統に対して、少数の者に信じられ、主張されているものをいう。

「邪説」とは、よこしまな議論、不正な主張の意。

こうした言葉も、この章の「異端」から生まれる。

 ある時、みなの常識となっている正統に疑問を感じ、その解明を進めようとすると、異端が生じるとも言えないだろうか。孔子の後を引き継ぎ、諸子百家の説が生まれたこともその証左なのだろう。

 学究には終わりがないということでもあろうし、歴史が続く限り、常に新説が登場することでもあろう。それがあまりに社会を震撼させるほどのパワーがあれば破壊的イノベーションということなのであろう。

 

 米中が対立する。イデオロギーの対立なのかもしれない。米中どちらの立場から見ても相手の思想は異端ということなのであろう。

異端を攻むるは、斯れ害あるのみ

 徂徠は、「異端」を「異心を抱く者」と解し、そういう者を急いで攻撃を加えることは、相手を激発することになるばかりで、害があるから、孔子がこれを諫めていると読んでいる。現代にも通じる読みなのかもしれない。

 こうした対立も仁斎がいうように無理に揃えようとはせずに、利害が一致することから始めれば自然に揃い、調和も生まれるのだろう。そして、そこからまた新説も生まれたりするのかもしれない。歴史に終わりはないのだろう。

 

 (参考文献)  

論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)

 
論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

 

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