葉公(しょうこう) 孔子を子路に問う。子路対(こた)えず。子曰わく、女(なんじ)奚(なん)ぞ曰わざる、其の人と為りや、発憤して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らず示爾(しかり)、と。(「述而第七」18)
(解説)
「葉地(しょうち)の長官が子路に孔子とはどういう方かと問うたことがあった。しかし、子路はお答えしなかった。孔子はこうおっしゃられた。「どうしてお前はこう言わなかったのか、その人柄は、発憤して努力し続け飲食も忘れるくらいである一方、その得た境地を楽しんで現実の憂いを忘れる日々であります。そのような生き方が若いときから続き、老境に至ろうとしていることも気づかないでおります。そういうことです」と。」(論語 加地伸行)
「憤りを発する」とはどういことか、と桑原は問いかけ、この章を解説する。
朱子も徂徠も孔子の好学心の強さを示すものだとするという。学問上わからない点があれば、食事も忘れて追及する。そして、それに成功すれば、楽しくて心配事なぞ忘れてしまう。そういうふうに学問に精進しているので、老年が迫っていることに気づかない。つまり、死ぬ日まで、学を廃さないという。
発憤忘食
しかし、この章の含みを必ずしも学問のみに限らなくてもよいのではないかと思うと、桑原は言う。一般に孔子は感激しやすく、夢中になるところがあるが、楽しいことがあると、今までの気がかりだったことなど、どこへやら忘れてしまう。そうした活発健康なパーソナリティの持ち主で、年のことなどを考えず、最後の日まで充実した生を生き抜こうとしている。そう読んでおいても、よいのではないかと指摘する。
「葉公」、楚の国の領地である葉県の長官で、姓は沈(しん)、名は諸梁(しょりょう)、葉公と僭称していたという。孔子がこの地を通ったのは、64歳のときだという。
その葉公に、孔子とはどういう人物かと下問されたが、子路は答えなかった。なぜ答えなかったのかには様々な解釈があるという。孔子が偉大過ぎて子路が答えかねたという説に、葉公が孔子を見習いたいと意図で質問してきているので答えかねた説もあるという。桑原は、相手は地方政治の実力者であり、孔子は亡命途上の人である。うっかりしたことは言えない、と子路がいつもに似合わず慎重に構えたのかもしれないという。状況を考慮した桑原説が説得力があるのではなかろうか。
「子路」、本名は仲由、子路は字名。顔回(顔淵)とともに「論語」の二大脇役。大国の軍政のきりもりを任せられる人材と桑原はいう。子路は晩年、衛の国に仕えるが、内乱に巻き込まれ殺される。
孔子は子路の配慮を批判したわけではないが、なぜお前はこう答えなかったのかねと、微笑んで言ったに違いないと桑原はいう。
「うちの先生の人柄は、何かに感奮すると、食事すら忘れてしまう。しかも、楽しいことがあると、心配事なぞ忘れてしまう。ともかくもう老いが迫っているのに、それを無視しているのですからね」
「発憤」は、社会にかかわり、楽しむというのは、個人にかかわるようにみえる。
「老いの将に至らんとするを知らず」というのが、老境にある者の覚悟でありたいと桑原はいう。
(参考文献)