孔子曰わく、益する者の三楽(さんらく)あり。損(そこ)なう者の三楽あり。礼楽(れいがく)を節するを楽しみ、人の善を道(い)うを楽しみ、賢友(けんゆう)多きを楽しむは、益するなり。驕楽(きょうらく)を楽しみ、佚遊(いつゆう)を楽しみ、宴楽(えんらく)を楽しむは、損なうなり。(「季氏第十六」5)
(解説)
孔子の教え。「有益な楽しみに三種、有害な楽しみに三種ある。正統な礼楽のほどよきことを楽しみ、他者の善行や美点を褒めることを楽しみ、賢明な友人が多いことを楽しむ、これは有益である。しかし、贅沢な楽しみ、気ままに遊びに熱中しての楽しみ、酒色に溺れての楽しみは、有害である」。(論語 加地伸行)
「疏食(そし)を飯(く)らい、水を飲み、肱を曲げて之を枕とす。楽しみ亦その中に在(あ)り。不義にして富み且つ貴きは、我に於いては浮雲の如し」(「述而第七」15)と孔子はいう。
単純生活をしていても、楽しみはやはりその中に見出される。それは学問をしており、そこでの進歩が日々に感じられるからであろうと桑原は解説する。
後段は、これに対立するものとして、富貴の生活、豊かな生活があげ、もしそれが「不義」つまり不正を行うことによって得たものであるならば、この私には空に浮かぶ雲のようなものにすぎない、という。
孔子は、贅沢な生活をしている連中を否定はしないが、それでは真に「楽」楽しむという境地に達しないとでも言っているのだろうか。
名宰相と言われる「管仲」に対する孔子の評価がそれを表しているのかもしれない。
「知者は水を楽(この)み、仁者は山を楽む。知者は動、仁者は静。知者は楽しみ、仁者は寿もてす」(「雍也第六」23)と、孔子はいう。
「孔子は水も美しい、山も美しい、とみているという。知者は楽しむ、の場合の楽しむには上品な意味での快楽、エピクロスが求めたようなものとしての快楽の語感がある。仁者は快楽を否定する禁欲主義者では決してないが、歓楽をたのしみにまで減速濾過することによって、生命を静かに永くするのであるという」と桑原は解す。
知者と仁者を高低なく、むしろ人間類型におけるふたつの優れたタイプとみたいと桑原はいう。
「人にして不仁ならば、礼を如何せん。人にして不仁ならば、楽を如何せん」(「八佾第三」3)と孔子はいった。
「礼節は仁の貌(表現)」であり、「楽は仁の和(ハーモニー)」であるという。
この章で孔子が指摘した益者の三楽には、仁の和、人と人のハーモニーといっている気がする。
(参考文献)