子曰わく、之を知る者は、之を好む者に如(し)からず。之を好む者は、之を楽しむ者に如からず。(「雍也第六」20)
(解説)
「孔子の教え。道理を理解できただけでは、道理を実践することに及ばない。また、道理の実践ができただけでは、道理の境地にあることに及ばない。(論語 加地伸行)
「之」を学問や道とする説が普通であるが、加地は道理と解釈する。
一方、桑原は、知る、好む、楽しむという三つの動詞によって、対象に対する主体のかかわり方、しがって対象に対する主体の態度の深浅のあることを示した名言であるという。
桑原の解説
「知」は客体の認識、「好」は客体への傾斜つまり関心、そして、「楽」は客体の中に入ってあるいはそれと一体化して安住することであろう。最初の二段階を経て、第三段階の安らぎの理想境に達するとするのである。しかし、いきなりそこに到達することは許されないのであって、漸次的完成がなければならないという。
「之」というのは軽い言葉であって、必ずしも学問、道徳ととらず、およそものごとは、という意味にとっておきたいという。
桑原は登山を例に説明する。
山があること、さらに登る技術を知らなければ登山は成立しない。しかし、登山家といわれるのには、山が好きでなければ駄目である。好きだからあくまで登攀に成功しようという闘志もわいてくる。しかし、本当の山登りの達人は、谷をわたり岩壁を登ること自体に楽しみを見出している。だから他人にまたは組織に要求されて登るわけではない。気分ないし体調がよくないとみたら、登攀を打ち切ってこだわらない。そして、日を改めてまた登って楽しむのであるという。
もっとも第三段階をあまり高く評価しすぎて、山など麓から雲のかかったところを囲炉裏端で渋い茶でも飲みながら眺めるのが一番だ、という風なところまでいけば、すでに隠である。孔子は、隠者を認めてはいるが、それらは別のカテゴリーだとして奨励してはいない。
いうまでもなく、第一、第二段階がなければ社会は動かないであろう。それを軽視するのでは決してないという。
桑原の解説に惹かれる。
「知」「好」「楽」、ということが、「論語」の根底にある考え方のように思う。
様々な言葉に彩られた「論語」ではあるが、その各々を知り、それを好きになるから実践しようと思い、それを楽しむことができるのかもしれない。
桑原が言うように、「之」をおおよそのこととした方が、人生に応用していくにはいいのではなかろうか。何事もまず知ろうとすることから始まるのだから。
もちろん、その人生への応用には、加地のいう道理や徳なども含まれているのだろう。またそうした智慧が身につけば、人生を「楽」することや「楽」しむこともできるのだろう。
(参考文献)