独創性や独自性、自分探しで悩んだことはありませんか?
『個人の模倣を通過しないと新しさなるものはありえない』
とアナトール・フランスはいっている。
子曰わく、学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。思いて学ばれば、則ち殆(まど)う。(「為政第二」15)
(意味)
「知識や情報を(たくさん)得ても思考しなければ、どうして生かせばいいのか分からない。逆に、思考するばかりで知識や情報がなければ(一方的になり)、独善的になってしまう。」 (論語 加地伸行)
偉人たちもみな過去を学んで、新しきものを生み出した。先人たちの知恵を真似てみることがいいことなのかもしれない。
「学」とは先王の道を書物によって、あるいは書物を媒介とする先生の教えによって、習い知ること。
「思」とは自分自身で思索すること。
桑原は、古典を読むばかりでみずから精神を悩ませて考えることをしないと、受動的に学的蓄積がふえるのみで、能動的に整理されることがない。ぼんやりと混乱して焦点のない学問になるという。反対に個体的思索にのみふけって人類の知恵ともいうべき古典によって規制することを怠るならば、独善的な堂々めぐりに陥って、疲労困憊し不安定な妄想に終るおそれがあるという。
仁斎が、「昔の学者は思うことが学ぶことより多く、今の学者は学ぶことが思うことより多い」と解説しているは面白い。
文献主義の批判であると同時に、彼自身の独創的思想家たる面目がうかがえるからである。もっとも仁斎ほどの才能のない青年学徒が基礎的読書ないしトレーニングを怠って、ただ性急に独創性にあこがれることの危険を忘れてはならない。
個人の模倣を通過しないと新しさなるものはありえない、といったのはたしかアナトール・フランスだった。 (出所:論語 桑原武夫)
過去を学ぶとは、古典ばかりでなく、普通に読書すること。そして、考えること。
それが自分探しということではなかろうか。そうすれば、必然と独創性、独自性がうまれてくるのかもしれない。
「衛霊公第十五」31で、孔子は「吾(われ)嘗(かつ)て終日食らわず、終夜寝(い)ねず、以て思うも益無し。学ぶに如(し)かざるなり」という。
この「思いて学ばれば、則ち殆う」を体験的に述べたといわれる。
(参考文献)