子は怪、力、乱、神を語らず。(「述而第七」20)
(解説)
「孔子は、怪力や乱神についてはお話にならなかった。」(論語 加地伸行)
加地は、怪力(神秘的な力)、乱神(あやしげな神)との二者とするが、桑原は、怪、力、乱、神と四つの事とするのが普通であるという。
「怪」は怪異。「力」は信じられないような体力。「乱」とは臣が君を、子が父を殺すといった秩序の破壊。「神」とは鬼神のこと。
孔子は、そういうことを口にすることを好まなかったという。この世にあってはならない非合理的なことだからだという。孔子の健康な合理主義の表明だとされる。
しかし、この章を文字通りに信じると、「易」や「中庸」などの古典にのった孔子の言葉をされるものの内に、怪、力、乱、神に関するものがあることをどう解すればよいのかと疑問を呈し、仁斎の、それは、後世の付会だとするほかはないという。
単純合理主義否定の方向をとる徂徠は、巧妙な解決案を示しているという。
すなわち「語」という言葉は、孔子の時代では、「誨言」すなわち教え諭すという意味である。孔子は、怪、力、乱、神のことを教材にしなかった、というだけのことであって、日常の談話においては、聖人といえども普通人と変りのあろうはずはなく、お化けの話もされたに違いない、というのである。
なるほど、そうほうが「論語」をより身近に感じられていいかもしれない。
(参考文献)