或るひと子産(しさん)を問う。子曰わく、恵人(けいじん)なり、と。子西(しせい)を問う。曰わく、彼をや彼をや、と。管仲(かんちゅう)を問う。曰わく、人や、伯氏(はくし)の駢邑(べんゆう)三百を奪う。疏食(そし)を飯(く)らい、歯(よわい)を沒するまで怨言(えんげん)無し、と。(「憲問第十四」9)
(解説)
ある人が子産の評価を尋ねたところ、孔子は「恵み深い人だ」と答えた。「子西は」。「彼などについて聞くのか、彼などについて」。「管仲は」。「人物だな。大夫の伯氏の知行地である駢の三百戸を奪い取った。奪われた伯氏は粗食の貧しい生活をしながらも、生涯、管仲への恨みのことばを発しなかった。(論語 加地伸行)
「管仲」、孔子より百年以上も前の人で、斉の国の実力者。国君の桓公を力で覇者にしたという。覇者とは、実力のなかった国王の下で、諸侯を率いた事実の最高指導者。
「八佾第三」22で、「管氏にして礼を知らば、孰(たれ)か礼を知らざらん」と、管仲の非礼を断じた。
「子西」は、子産と同族だという。
「子産」、氏は公孫、名は僑、字名が子産。鄭の国の貴族で宰相を務めという。孔子より一世代前の合理主義的政治家であったという。
孔子は、その子産を「恵人」と呼び、管仲を「人」と呼ぶ。加地も管仲を「人物」と解する。君子とはまた別な表現ということであろうか。
伯氏の知行地を奪い去り、奪われた伯氏に粗食の貧しい生活を強いた。しかしながら、伯氏は生涯、管仲への恨みのことばを発しなかったという。それは管仲にただ敬服(うやまって従うこと。感心しうやまうこと)していたということだけなのかもしれない。
「仁」を全うする君子であれば、力で他者を圧倒することはない。力に頼った管仲はそれなりの「人物」であったに過ぎないということであろうか。
子産と管仲、同じ為政者、政治家であるなら、「恵人」であって欲しいものだ。「〇を見る会」を催したどこかの政治家が管仲にだぶってしまった。
(参考文献)