子路(しろ)が曰わく、桓公(かんこう) 公子糾(こうしきゅう)を殺す。召忽(しょうこつ)之に死し、管仲(かんちゅう)は死せず。曰わく、未だ仁ならざるか、と。子曰わく、桓公 諸侯を九合(きゅうごう)するに、兵車(へいしゃ)を以てせざるは、管仲の力なり。其の仁に如(し)かんや、其の仁に如かんや、と。(「憲問第十四」16)
(解説)
子路が言った。「桓公は公子糾を殺しました。召忽は死にましたものの、管仲は生き残りました。立派な人格ではありますまい」と。孔子は言った。「桓公が諸侯を集めて会盟したとき、武力を用いなかったのは、宰相の管仲の力量に依る。その立派さに及ぼない、及ぼない」と。(論語 加地伸行)
斉の国で君主の地位をめぐる争いがあり、「公子糾」はそのひとりであったという。この「公子糾」の介添役が「召忽」と「管仲」であった。「召忽」は「公子糾」に殉じ、死ぬ。「管仲」は生き、「桓公」の宰相になる。
乱れ争っていた諸国を平和な会盟にまで持ち込めたのは「管仲」の見識と力量による。
主君に殉じ死んだ「召忽」も「仁」ではあるが、天下国家のためとする「管仲」のそれには及ばないと孔子は言ったのである。
「関連文書」
(参考文献)