叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく) 仲尼(ちゅうじ)を毀(そし)る。子貢(しこう)曰わく、以て為すこと無かれ。仲尼は毀る可からざるなり。他人の賢者は丘陵なり。猶(なお)踰(こ)ゆ可し。仲尼は日月なり、得て踰ゆる無し。人自ら絶たんと欲すと雖(いえど)も、其れ何ぞ日月を傷(やぶ)らんや。多(まさ)に其の量を知らざるを見(しめ)すなり、と。(「子張第十九」24)
(解説)
叔孫武叔が孔子を罵った。子貢は言った。「そういうことはやめなさい。孔子を非難することがあってはならぬ。孔子以外の賢人は丘陵程度の高さであり、越えることができる。しかし、孔子は日月のような高さにいるので越えることはできない。人が自分から絶とうと思っても、どうして日月を傷つけることができようか。まさに身の程知らずを示すようなものだ」と。 (論語 加地伸行)
魯国君主の桓公の分家に、孟孫氏、叔孫氏、季孫氏の三家があり、三桓といわれ、魯国重臣として代々威勢があった。筆頭格であった季孫氏は正妻の子であったのに対し、叔孫氏は側室の子であったという。 dsupplying.hatenadiary.jp
孔子は魯君のために働こうと思っても、実質的には三桓と妥協しながら、君主の地位や力を高めようとした。「論語」の中に、三桓への批判の言葉がある一方で、その交流が描かれるのは、そのためであると加地はいう。
子貢は、そんな孔子と三桓との緊張関係を見ていたのだろう。
「仲尼は日月なり、得て踰ゆる無し」
天子気取りの三桓に対し、孔子を「日月」にたとえたのは子貢の言語の巧みさであり、そこには皮肉が込められていたのだろう。
「人自ら絶たんと欲すと雖も、其れ何ぞ日月を傷らんや。多に其の量を知らざるを見すなり」
「子貢」、姓は端木、名は賜、字は子貢。孔門十哲の一人と言われる。孔子より32歳年少。 利殖の道にもたけ、孔門第一の金持になった。
「言語には子貢」、「賜や達なり」と、孔子は子貢を評価する。その見通しのよさを褒めつつ、もう少し鋭鋒をかくしたほうがよいと忠告したともいう。
その子貢は、孔子死後、衛の宰相となったといわれる。
「関連文書」
(参考文献)