叔孫武叔(しゅくそんぶしゅく) 大夫(たいふ)に朝(ちょう)に語(つ)げて曰わく、子貢(しこう)は仲尼(ちゅうじ)に賢(まさ)れり、と。子服景伯(しふくけいはく)以て子貢に告ぐ。
子貢曰わく、之を宮牆(きゅうしょう)に譬(たと)うれば、賜(し)の牆や、肩に及ぶのみ。室家(しつか)の好(こう)を闚(うかが)い見ん。夫子の牆や数仭(すうじん)。其の門を得て入らざれば、宗廟(そうびょう)の美、百官の富みを見ず。其の門を得る者、或いは寡(すく)なし。夫子の云うこと、亦(また)宜(むべ)ならずや、と。(「子張第十九」23)
(解説)
叔孫武叔が政庁において同僚の大夫に向かってこう言った。「子貢は孔子よりも賢(まさ)っているな」と。その話を聞いて子服景伯は子貢に告げた。
子貢はこう述べた。「垣根に譬えますならば、私の垣根は、せいぜい方の高さぐらいのものです。それを越しに家の造りの良さぐらいがすべて見えましょう。しかし、孔子の垣根は数仭の高さ。その門を入ることができませんと、仲の宗廟のような壮麗さ、百官が居並ぶような盛大さは見えませぬ。しかし、先生の門に入り得る者は少ないのです。あの人が言っていることもまたもっともです」と。 (論語 加地伸行)
「子服景伯」、同じく魯国の大夫
論語において、孔子と子貢のやり取りが多く残されている。そんな会話の中から、子貢は孔子という人物を知り、そして、学びの機会としたのだろう。
ある太宰(たいさい)が、 子貢に「孔子は聖者か。何ぞ其れ多能なるや」と尋ねる。
しかし、子貢は、「固(もと)より天 之に将聖(しょうせい)なること、又多能なるを縦(ゆる)せり」と、少々ピンボケの答えをしてしまう。
この太宰は、弁舌をもって有名な秀才子貢をからかったといわれるが、珍しくこのときは、孔子を思うあまりか、うまく切り返しができなかったようだ。
孔子は、「子 之を聞きて曰わく、太宰 我れを知れり。吾少(わか)きとき賤(いや)し。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子は多ならんや、多ならず」と、子貢を諭す。 (「子罕第九」6)
「子貢」、姓は端木、名は賜、字は子貢。孔門十哲の一人と言われる。孔子より32歳年少。弁舌にすぐれた秀才で、利殖の道にもたけて孔門第一の金持になったという。
「言語には子貢」と評されただけあって、この秀才はおそらくスマートでやや実直さに欠けるところがあったのかもしれないと桑原は言う。「賜や達なり」(雍也第六」8)といって、孔子は子貢の見通しのよさを評価している。
「女(なんじ)は器なり」。「瑚璉(これん)なり」。(「公冶長第五」4)、
孔子は子貢を褒めつつ、もう少し鋭鋒をかくしたほうがよいと忠告もする。
「関連文書」
(参考文献)