「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

エッジを少し緩めてみると...【何の器ぞや、と。曰わく、瑚璉なり】 Vol.99

 

 子貢問いて曰わく、賜(し)や何如、と。

子曰わく、女(なんじ)は器なり。曰わく、何の器ぞや、と。

曰わく、瑚璉(これん)なり、と(「公冶長第五」4)

  

(解説)

「子貢が孔子にたずねたことがあった。「私は何なのでしょうか」と。孔子はお答えになった。「お前には、器才がある」。「どういう器才ですか」。「最高ということだ」。」論語 加地伸行

 

「子貢」、姓は端木、名は賜、字は子貢。孔門十哲の一人と言われる。

孔子に、「私は如何でしょうか」「私をどのように評価されますか」と子貢が聞いたというのである。この章を前章と結びつけ、孔子が子賤を褒めたので、自信家の子貢が、それなら私は、と口を出したのだ、とする説が多いという。

 

 

 

 孔子は、まずは「器」だ、答える。これを「為政第二」12の「君子は器にあらず」と結びつける必要はなかろうと桑原は言う。しかし、「器」は道具であって、しかもその用途は色々ある。子貢は不安になって、「どんな器ですか」と聞き返すと、「瑚璉」だと答える。

「瑚璉」とは、宋廟のお祭に黍や高粱の飯を盛る器である。そうした非日常的な貴重な器にたとえることによって、孔子は何をいおうとしていたのか、桑原は的確にとらえかねるという。訳者によって見解の相違があるからかもしれない。

 桑原によれば、朱子は、やはり「君子は器ならず」が頭にあるので、器の中で最も華美なものではあるが、まだ真の君子の境地には達していないとみているという。

 仁斎は、自分から自分の評価を先生に質問するといった子貢の出過ぎた態度に反感をもったのか、かなり手厳しい。道具といっても農具などは不可欠なものであるのに、世人はこれを貴重視しない。聖人の徳なども同じことで、かえって貴重視されることがない。子貢は要するに賢者に過ぎないので、華やかだがまだ「仁」の境地には達していないと注意されたのだとよむという。

「言語には子貢」と評されただけあって、この秀才はおそらくスマートでやや実直さに欠けるところがあったのかもしれないと桑原は言う。しかし、「賜や達なり」(雍也第六」8)といって、孔子は子貢の見通しのよさを評価している。ここではもう少し鋭鋒をかくしたほうがよいという忠告を含んでの比喩と見ておきたい」と解説する。

 

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 加地の訳とは正反対にとれる。その加地はこう解説する。

「瑚璉」は、宋廟で用いる黍稷(穀物)を盛る器で、黄金や玉で飾られ、各種の器の中で「貴重華美なる者」とされる。つまり、魯国の君主の宗廟における「瑚璉」であるから、君主を輔佐する直近の地位を意味する。しかし、そういうことはあからさまに言えないので比喩的に道具の話をしたのだろうという。政治における最高の器量人という比喩だともいう。

 

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 現代においては、エッジを利かせることがもてはやされる。しかし、一方でエッジが利き過ぎたものが大成するとは限らない。桑原の言う通り、少しだけエッジに丸みを与えたほうがよいのかもしれない。そうすることで、多くの人に受け入れやすくなるのかもししれない。それは、今も昔も変わらないということなのかもしれない。

 

 若いときの北島康介もそうだったのかもしれない。若気の至りといえるが、少し生意気に映ったりする。それより歳重ね丸みを帯びた康介さんは素敵だし、多くの仲間が集まる。北京五輪のときの「康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかない」と語った松田丈志さんのことを思い出す。

  

(参考文献)  

www.nikkei.com

論語 増補版 (講談社学術文庫)

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論語 (ちくま文庫)

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