「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

【夫子は聖者か。何ぞ其れ多能なるや】 Vol.212

 

太宰(たいさい) 子貢に問うて曰わく、夫子(ふうし)は聖者か。何ぞ其れ多能なるや、と。

子貢曰わく、固(もと)より天 之に将聖(しょうせい)なること、又多能なるを縦(ゆる)せり、と。

子 之を聞きて曰わく、太宰 我れを知れり。吾少(わか)きとき賤(いや)し。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子は多ならんや、多ならず、と。 (「子罕第九」6)

  

(解説)

「ある太宰が子貢にこうたずねた。「孔子は、聖人であるのか。どうしてあれほどいろいろと俗事ができるのか」と。

子貢は答えた。「お生まれになったときから、天は先生に対して大聖であること、その上多能多芸であることを広くお任せになったのです」と。

孔子は、このことをお知りになって、こうおっしゃった。「太宰は私をよく知っている。私は若いころ、生きてゆくのがやっとの生活であった。だから、どんな仕事でもしてきて多能となったのだ。教養人の条件は多能であろうか、多能である必要はない」と。」 論語 加地伸行

 

 

 

 

「太宰」とは、宋と呉の国の官名で首相にあたる。この章の「太宰」とは、「史記」の「呉太伯世家第一」と「越王勾践世家第十一」に登場する呉の大宰 嚭(ひ)であると桑原はいう。呉王夫差(ふさ)を輔佐したが、名臣伍子胥(ごししょ)をしりぞけ、越王の賄賂に目がくらみ、呉を滅亡させた汚職政治家だという。

その大宰 嚭が、当時その名が天下に知られていた孔子について、その愛弟子「子貢」にいささか絡んだと桑原はいう。それによれば、子貢は魯を代表して、この大宰嚭と二回会談し、その時の話だろうという。

 

 「あなたの先生は、聖人だと言われるが、そうなのですか。それにしては細々とした技能をどうしてあんなにたくさん知っているおられるのですか」。

 子貢の答えは少しピンボケではっきりしない。異国の大臣に対して祖国と恩師を辱しめることなしにうまく答えたいと思うので、かえってまずくなる。

「もともと先生は、天から認められた大聖人ですが、そのうえ多芸でいらっしゃるのです」。

 

 この問答と聞いて孔子がいった。大臣は私のことをよくわかっていてくれる。私は若いとき貧賤だった。だから、いろいろつまらぬ技能を身に着けたのだ。しかし、紳士というものは、多芸であるべきだろうか。いや多芸であってはいけないのだ。

 

 

「君子は器ならず」(為政第二12)で、孔子自身がいっているように、偉い人は多芸であってはならない。専門技術者はそれに使役されるべき人間に過ぎない、というのが、当時の社会の通年であったらしい。そこで呉の首相が弁舌をもって有名な秀才子貢をからかったのである。子貢の答えは、切り返しになってはいない。

 

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 孔子の態度は本篇2の「達巷(たつこう)党の人」の章におけると、ちっとも変ってはいないと桑原はいう。

 自分の多芸である事実を否定はしないが、それをいいことのようにいった子貢の言葉を、師匠をほめようとする心情はわかるけれども、それはいわばひいきのひき倒しに類するのであって、自分の多芸なのは、貧乏で苦労したからですよ、と謙遜し、一般に「紳士」というものは、多芸であっていいのだろうか、いやそうではあるまい、としたのである。

 

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 「達巷(たつこう)党の人」の章と同工異曲で、大きな問題を全般的には受けとめつつ、軽く焦点を絞り、イメージをはっきりさせたような快い美しさを持っていると桑原は言う。

 孔子はもちろん自分の出身や多芸を卑下しているのでは決してない。それなりの自信を持ちつつ、しかし子貢よ、お前の答えは苦しかったね、まあ「紳士は紳士らしく」というほうが穏やかじゃないかね、という感じであるという。

 これを仁斎のように、一事だけを学ぶと精神が集中するが、多方面にすると気が散るとして、弟子を戒めたのだ、といそこまで教訓的に読み取る必要はなかろうともいう。

  

(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

  
論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)

  • 作者:桑原 武夫
  • 発売日: 1985/12/01
  • メディア: 文庫