「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

【行く径に由らず。公事に非ざれば、未だ嘗て偃の室に至らず】 Vol.135

 

子游 武城の宰と為る。子曰わく、女人(なんじびと)を得たるか、と。曰わく、澹台滅明(たんだいめつめい)という者有り。行く径(こみち)に由らず。公事に非(あら)ざれば、未だ嘗(かつ)て偃(えん)の室に至らず、と。(「雍也第六」14)

  

(解説)

子游が武城の長官となった。孔子がたずねた。「人材を得たかな」と。子游はこうお答えした。「澹台滅明という人物がおります。どこかに行きますとき、近道を通ることをいたしません。また、公用でなければ、決して私の自室に入ることをいたしません」と」論語 加地伸行

    

桑原の解説。

「武城」は魯の町の名、沂水(きすい)の流域にあって南方の強国呉、越などの防ぐ要塞。子游がそのむつかしい地点の地頭になったとき、孔子はまだ第一に、人物をみつけたか、と聞いたのである。秀れた人物を起用することこそ、政治の要点と考えたのだ。それに対して子游は澹台滅明の名をあげた。道を歩くときにショートカットをしない、また公用がない限り私宅にやって来たことは一度もない、という堅物だという。

 

 

 

 澹台滅明、あざなは子羽といい、孔子より39歳若く、容貌の醜い男であったといい、そのため、一度会った孔子も重視しなかったという。ところが、彼は南方揚子江方面に儒教を広め、300人もの弟子を持ち名声をあげたという。

 そこで孔子は、「貌を以て人を取り、これを子羽に失えり」と言わざるを得なかったという(「史記」仲尼弟子列伝)。

 孔子が容貌で人を見ていたとは少し意外でもあるが、それがあってか、この子羽を評価する言葉を遺しているという。そんな孔子にすれば、適材適所、堅物、生真面目な人間こそ必要であるとも言いたかったのかもしれない。

 

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子游」、姓は言、名は偃、字名が子游孔子より四十五歳年少の弟子。孔門十哲の一人。学問に秀れ、文学には子游といわれる。礼の形式を重んずる客観派の一人ともされる。子夏学派が礼の形式に流れたのに対して、子游は「礼の精神」を強調する。 

  

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(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

  
論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)

  • 作者:桑原 武夫
  • 発売日: 1985/12/01
  • メディア: 文庫