子游 武城の宰と為る。子曰わく、女人(なんじびと)を得たるか、と。曰わく、澹台滅明(たんだいめつめい)という者有り。行く径(こみち)に由らず。公事に非(あら)ざれば、未だ嘗(かつ)て偃(えん)の室に至らず、と。(「雍也第六」14)
(解説)
「子游が武城の長官となった。孔子がたずねた。「人材を得たかな」と。子游はこうお答えした。「澹台滅明という人物がおります。どこかに行きますとき、近道を通ることをいたしません。また、公用でなければ、決して私の自室に入ることをいたしません」と」(論語 加地伸行)
桑原の解説。
「武城」は魯の町の名、沂水(きすい)の流域にあって南方の強国呉、越などの防ぐ要塞。子游がそのむつかしい地点の地頭になったとき、孔子はまだ第一に、人物をみつけたか、と聞いたのである。秀れた人物を起用することこそ、政治の要点と考えたのだ。それに対して子游は澹台滅明の名をあげた。道を歩くときにショートカットをしない、また公用がない限り私宅にやって来たことは一度もない、という堅物だという。
澹台滅明、あざなは子羽といい、孔子より39歳若く、容貌の醜い男であったといい、そのため、一度会った孔子も重視しなかったという。ところが、彼は南方揚子江方面に儒教を広め、300人もの弟子を持ち名声をあげたという。
そこで孔子は、「貌を以て人を取り、これを子羽に失えり」と言わざるを得なかったという(「史記」仲尼弟子列伝)。
孔子が容貌で人を見ていたとは少し意外でもあるが、それがあってか、この子羽を評価する言葉を遺しているという。そんな孔子にすれば、適材適所、堅物、生真面目な人間こそ必要であるとも言いたかったのかもしれない。
「子游」、姓は言、名は偃、字名が子游。孔子より四十五歳年少の弟子。孔門十哲の一人。学問に秀れ、文学には子游といわれる。礼の形式を重んずる客観派の一人ともされる。子夏学派が礼の形式に流れたのに対して、子游は「礼の精神」を強調する。
(参考文献)