子貢(しこう)問いて曰わく、一言にして以て終身 之を行なう可き者ありや、と。子曰わく、其れ恕(じょ)か。己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ、と。(「衛霊公第十五」24)
(解説)
子貢が質問した。「生涯、行なうべきものを、一字で表せましょうか」と。孔子は答えた。「それは、恕だな。自分が他人から受けたくないことは、他人にもしないことだ」、と。(論語 加地伸行)
子貢、本名を端木賜(たんぼくし)といい、孔子より32歳年少。孔門十哲の一人。「言語に宰我(さいが)、子貢」(「先進第十一」3)と言われるように、弁舌にすぐれた秀才で、利殖の道にもたけて孔門第一の金持になったという。
その子貢が、「我 人の諸(これ)を我に加うるを欲せざるや、吾も亦(また)諸を人に加うること無からんと欲す」というと、孔子は「賜(し)や、爾(なんじ)の及ぶ所非(あら)ざるなり」と返し(「公冶長第五」12)、軽くたしなめた。
己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ
子貢に身に着けることができなかった徳なのだろうか。
「夫れ仁者は、己立たんと欲すれば人を立つ。己達せんと欲すれば人を達す。能(よ)く近くに譬(たと)えを取るは仁の方と謂う可きのみ」(「雍也第六」30)と、孔子は子貢に教える。
その孔子は、「吾が道は一以て之を貫く」といい、この言葉を曾子が門人たちに、「夫子の道は、忠恕のみ」と教える。(「里仁第四」15)
「恕」、思いやりのこと。
今、このコロナ渦の時代に問われている一字なのかもしれない。
「己の欲せざる所は、人に施すこと勿れ」
この言葉も求められているのだろう。
同じ言葉が、「顔淵第十二」2にも登場していた。
(参考文献)