子貢曰わく、如(も)し博く民に施して能(よ)く衆を済(すく)う有らば、何如。仁と謂う可(べ)きか、と。子曰わく、何ぞ仁を事とせん。必ずや聖か。堯(ぎょう) 舜(しゅん)も其れ猶諸(これ)を病めり。夫れ仁者は、己立たんと欲すれば人を立つ。己達せんと欲すれば人を達す。能(よ)く近くに譬(たと)えを取るは仁の方と謂う可きのみ、と。(「雍也第六」30)
(解説)
「子貢が質問したことがあった。「もし広く人々を物・心ともに豊かにし、人々を救うことができましたとき、いかがでありましょうか。それは仁者と言えるでしょうか」と。孔子はお答えになった。「どうして仁者あたりにとどまろうか。まちがいなく聖人だ。堯や舜でさえも、それは難しいと、気がかりであった。よいか、仁者 人格者は己を世にしかと示そうと思えば、先に他者をそのようにさせる。己が目的を遂げようと思えば、先に他者をそのようにさせる。近くにかくありたきことの類型を実現させようとする、それが人格者が用いる方法と言うことができる」と。」(論語 加地伸行)
桑原の解説
理論好きの、そして、ややともすれば抽象論に陥りやすい子貢が、治国の道を問うたのに対し、孔子があまり高遠なことを考えず、もう少し具体的に身に即した発想をすべきであると、さとしたという。
子貢は、主催者の立場から仁を考えたのに対し、孔子は治者の立場からではあるが、より一般化し、いわば中間層の立場において、実践的に考えたという。仁とは人間と人間の善意の結びつきであって、孤独の個人の努力だけでは、決して仁の境地に到達しうるものではなく、人間はつねに近くから遠くへと、善意の網の目を広げていかなければならないとする孔子の教えが、よく示されている。 (引用:「論語」桑原武夫 P163)
この章を「高い道徳をもった人間は、自分が立ちたいと思ったら、まず他人を立たせてやり、自分が手に入れたいと思ったら、まず人に得させてやる」と解し、 さらに、「自分を愛する気持ちが強いなら、その分、社会もまた同じくらい愛していかなければならない」という。そして、弱者救済の必要性を説く。
昨今SDGs流行りである。SDGsの実践において見習うべきことなのかもしれない。桑原の解説を読むと、SDGsには、忠恕の精神と中庸の徳が求められているのかもしれない、そう感じる。
(参考文献)