「スペシャリティ」であったものが、あっという間に「コモディティ化」してしまう現代。論語のこの言葉が何かのヒントを与えてくれるかもしれない。
子曰わく、君子は器にならず。(「為政第二」12)
(意味)
「君子は専門家ではない。器はすべて特定の用途のために作られ、それ以外の用途には適さない。舟は水に浮かべるが山に登れない、車は陸を行くが海は渡れない。君子は用途のせまい器のような専門家であってはならない」(論語 桑原武夫)
加地は、一技・一芸の人ではなく、大局を見る人と読み。また、器物を「特殊の用に役立つのみ」とせず、技術的・実用的・日常的なこととし、君子はもっと精神的・内面的であれとする解釈があるという。(出所:論語 加地伸行)
君子とは
こう読むと、「君子」とはどんな人のことを指すのかが気になる。
君子はジェントルマン
桑原は、「君子」は本来貴族の身分にあって美的修養に努めることのできる人間として、小人つまり庶民に対するものだが、単に階級的な規定だけではなく、道徳的価値を内包していなければならないという含蓄を持っているという。
近代デモクラシーが発展するまでは、西洋も東洋でも、教養のあるのは上層身分の人間だけであって、下層の人間には文化はありえないと考えるのが一般的であったとする。あのプラトンでさえ、奴隷のように愚かしいとか、醜いとの表現があったという。誰しも好んで奴隷になっているわけではないといって古代の哲人を非難することはできないと桑原は指摘する。孔子もまた階級の存在がむしろ社会秩序の安定に必要だったと考えていたのだろうと桑原は推測する。ただ、彼は道徳を貴族社会のみに閉じ込めておこうとはせず、むしろこれを漸進的に下の階級にも浸透させたいと思っていたのであろうという。
桑原は「君子」をその階級制を忘れて一般庶民の「モデル」として考えて差し支えないという。「君子」をジェントルマンの現代語訳として造語された「紳士」に置き換えることは正しかろうという。
君子は支配階級とする徂徠
桑原はさらにこう解説している。
徂徠のように、君子を政治的にとらえて、君と卿すなわち支配者と考えることもできるという。一般官吏としての士と一般庶民はそれぞれの技能を持たねばならない。つまり「器」だ。
君子はこの様々な「器」を使いこなす立場にあるのであって、特定の技術者であることを避けるべきだとする。
多芸であった孔子は君子なのか、それとも聖者なのか
儒教を信奉していた桑原の父は、「(昭和)天皇が生物学に凝られることを憂慮していた」という。
「博く学びて而も名を成す所無し」(「子罕第九」2)
一方で、「吾れ少(わか)くして賤しりき。故に鄙事(ひじ)に多能なり。君子は多からんや、多からざる也」(「子罕第九」6)といい、孔子は、君子に「多能」は適当ではないという。
また、孔子は「吾試(もち)いられず。故に芸あり」といい、「自分は世間的に出世しなかった。だから多芸なのだ」という。
現代の「君子」を考える
「不器(器にならず)」とは特定階層の人々にとってのみの専門技能の否定ではなく、すべての人が技能を当然持ちながら同時に広い視野と行動力を持ちうるようでありたいという希望を示すものと、今日は受けとっておきたい桑原はいう。
しかし、桑原が「論語(ちくま文庫)」を書いてからだいぶ時が経つ。さて、現代ではどうなのであろうか。
尖がった技術、尖がったアイデアのような言葉が若い世代では定着してきている。この点を瀧本哲史氏はつぎのようにいっている。
あらゆる業界、あらゆる商品、あらゆる働き方における「スペシャリティ」の地位は決して永続的なものではありません。
ある時期に「スペシャリティ」であったとしても、同じ軸で競争をしている限り、時間の経過にともない、その価値は必ず低下し、「コモディティ」へと転落していきます。
そんな中で、単なるハイスペックであることよりも、文脈やストーリーといったものが評価されるようになるのは当たり前の話です。それはやはり、より本物で、よりターゲットが絞られた、より尖ったものが残っていくのでしょう。
競合がその市場に気がついて殺到すれば、それもまた過当競争になっていくわけですが、いずれにせよ、ターゲットを絞ったものしか残らないと思います。ところがそうなると、より領域が絞られ、より特殊な知識が反映され、よりターゲットが絞られたもののほうが尖ったものになります。すなわち、万人が共感するストーリーを作ることは非常に難しくなってしまったともいえます。
そういうなかで、今どんなものが万人が共感するストーリーになっているかというと、例えば「日本人であること」はそうかもしれません。(出所:NewsPicks)
桑原の時代には、「専門ボケ」という言葉が流行ったというが、今ではすっかり様変わりし、専門家と言えば、より鋭敏なスペシャリティを操れる人を指す言葉になったのだろうか。
君子は器にならず
加地は「君子」を「教養人」と解する。その「教養」とは辞書で調べてみれば、
㋐学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。
㋑社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。
(出所:コトバンク)
とある。また、コトバンクのブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説によれば、「精神文化一般に対する理解と知識をもち,人間的諸能力が全体的,調和的に発達している状態」だという。
これをもとにすれば、「君子は専門家にあらず」となるのだろう。逆にいえば、より広範な知識、理解力を有した専門家が君子になり得るともとれるのだろうか。それが現代の君子像なのかもしれない。
君子を単なる一技・一芸ではなく、大局も読める人と解することが穏当なのかもしれない。
専門性をただ深め尖るだけなく、横に知識を広める手があっても良さそうだ。一歩退き、同じ領域で勝負しない手もあるのかもしれない。
個人的には桑原が言った「君子=ジェントルマン」との解が腑に落ちている。
この「ジェントルマン」は、サミュエル・スマイルズの「自助論」でいう「ジェントルマン」のことを指して言っていることではあるけれども.....
「道徳的価値を内包していなければならない」ということでは共通しているが。
(参考文献)