「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

【博学にして名を成す所無し】 Vol.209

 

達巷(たつこう)の党人曰わく、大なるかな孔子。博学にして名を成す所無し、と。

子 之を聞きて、門弟子(もんていし)に謂いて曰わく、吾 何を執(と)らん。御を執らんか、射(しゃ)を執らんか。吾は御を執らん。(「子罕第九」2)

  

(解説)

「達巷という党の人がこう言っていた。「りっぱだなあ、孔子は。博学であり、なにか一方面で著名ということではない」と。

孔子はこの話をお聞きになって、弟子たちにこうおっしゃった。「私は何を専門にしようか。御者にしようか、弓者にしようか。御者にしよう」と。論語 加地伸行

 

 桑原はこう解説する。

「達巷党の人」は定かではないという、それはさておき、その人が、「孔子さまはやはり偉大なかただ、色々なことを学ばれたが、とくに有名な専門といわれるものをお持ちにならないのだから」といった。

 博学にして名を成す所無し

 今も昔も専門の看板を掲げて、この一筋に生きている、ほかのことについては一切無知であるという顔するのが、純粋に見えて出世の早道であった。雑学はいつも貶(けな)し言葉である。 

 

 

 

 孔子はたいへんな博学だったが、専門家づらをしたことがない。そこを褒めた知己の言に孔子は気が和んだのであろう、

「それじゃ、私は何を専門にすればいいのかな。御者になろうか、射者になろうか。私は御者がいいな」と、側近の弟子たちにややユーモラスにいったのであると桑原は解説する。

 「執」とは、専門にすること。「礼」「楽」「射」「御」「書」「数」を六藝といって、古代の紳士の知っておかねばならぬ六課目であったという。

 孔子は自分の教えの根幹である「礼」と「楽」をあえて言わず、「御」と「射」をもち出したことが面白いと桑原はいう。これらを専門とすることはあまり立派なことではないといい、次のような例を示す。車を動かせ、ゴルフがうまいのはいいが、運転手、プロゴルファーは、お金が入っても社会通念では上流紳士とはみなされないという。それを専門が必要というなら、僕は運転手だね、と、このような感じで孔子がにこやかにいったというのである。

 

 

 博学にして名を成す所無し

 専門家、スペシャリストとして、その看板をより磨き、研げばエッジがきくことなったりするのだろう。それがなるほど出世の近道なのかもしれない。しかし、あまり尖り過ぎ、差別化しすぎると、時代の変遷とともに陳腐しやすくなる。それなら単純化、普遍的なところを尖らせる手もあるのかもしれない。

 

(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

  
論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)

  • 作者:桑原 武夫
  • 発売日: 1985/12/01
  • メディア: 文庫