子、衛に適(ゆ)く。冉有(ぜんゆう)僕(ぼく)たり。子曰わく、庶(おお)いかな、と。冉有曰わく、既に庶し。又 何をか加えん、と。曰わく、之を富まさん、と。曰わく、既に富めば、又 何をか加えん、と。曰わく、之を教えん、と。(「子路第十三」9)
(解説)
孔子は、衛の国へ行ったとき、冉有が車の御者を務めた。「人が多いな」と。冉有は質問した。「人が多いこの上に何を与えましょうか」と。孔子は「豊かにすることだ」と。冉有は「豊かにもすることができましたあと、何を加えましょうか」と。孔子は「教育だ」と答えた。(論語 加地伸行)
「子路第十三」4では、為政者が君子であらば、民が四方から集まるという。
「上 礼を好めば、則ち民は敢えて敬せざること莫し。上 義を好めば、則ち民は敢えて服せざる莫し。上 信を好めば、則ち民は敢えて情を用いざる莫し。夫れ是の如くんば、則ち四方の民、其の子を襁負して至らん」
「雍也第六」13では、「君子の儒」とは天下の事に責任をもち、民が安んずる志を持つものと桑原は解説した。
「冉有」、孔門十哲の一人。孔子より29歳年少の弟子。字名は子有。冉求とも呼ばれる。政治的手腕があり、才芸も豊かで、謙遜深かったといわれる。孔子が晩年魯国に帰国した後、冉求は季子の臣となったといわれる。
「雍也第六」30では、孔子は。「仁者は、己立たんと欲すれば人を立つ。己達せんと欲すれば人を達す」と、「己を世にしかと示そうと思えば、先に他者をそのようにさせる。己が目的を遂げようと思えば、先に他者をそのようにさせる」と仁者の心得を教える。
苟に仁に志さば、悪無きなり。(「里仁第四」4)
教育者でもある孔子は、「人を導くにあたって禁止的であるよりも奨励的な方法の方が有効であることを知っていた」と桑原はいう。
「冉有問う、聞かば斯ち行なわんか、と。子曰わく、聞かば斯ち之を行なえ」
「何かを学びます(聞)と直ぐにそれを実行してよろしいでしょうか」と、冉有が質問をしたとき、孔子はこう教えた。「学んだならば、直ぐに実行することだ」と。
冉有は、この章での学びを実行することができたのだろうか。
「季氏 周公より富む。而るに求(冉有)や之が為めに聚斂して之に附益す。子曰わく、吾が徒に非ず。小子鼓を鳴らして之を攻むるも、可なり」。(「先進第十一」17)
冉有が季子のために税を多く取り立て、季子をさらに富ませたという。政治手腕はあったといわれるが、君子ではなかったということなのだろうか。
(参考文献)