子 子夏に謂いて曰わく、女(なんじ)君子儒と為れ、小人儒と為る無かれ、と。(「雍也第六」13)
(解説)
「孔子が子夏に教えた。「君子 教養人であれ。小人 知識人に終わるなかれ」と。」(論語 加地伸行)
桑原の解説。
「儒」という語が「論語」にあらわれるのは、ここが最初であり、また最後という。
「儒」は柔で、柔らかにみやびやかだというところから、他の学派が孔子の一派を誹謗の意を込めて儒とよんだのだという。自称ではない。ここは教育者というほどの意味にとっておけばよいという。
君子の儒と小人の儒の対立には多くの説があるという。本来は、仁斎がいうように位の別であろう。 「君子の儒」とは天下の事に責任をもち、民が安んずる志を持つものであり、「小人の儒」とは自分一身を善くするにとどまって、社会的影響を持ちえぬ者であろう。人を治める学と人に治められる学といってもよい。
「子張第十九」12 にあるように子夏門弟たちは応対や儀式などは上手にこなすが、根本的ところは何もないと評されていたという。辞句、作法の細節にこだわらず天下を考える大儒になれとの意味もあるのだろう。
「子夏」、姓は卜(ぼく)、名は商。字名が子夏。孔子より44歳若く、孔子学団の年少グループ中の有力者。文学にすぐれた、つまり最高の文献学者だったという。孔子晩年の弟子。孔門十哲の一人。後に魏の文侯に招かれ、その師となる。
孔子が外出しようとしたとき、雨が降ったが、傘がなかった。弟子が「子夏がもっていますよ」というと、孔子は「あれはケチだからなあ」と答えたという。続けて「人の長所を言い、短所を忘れることによって、長くつきあいができるのだ」と言ったと、加地は「孔子家語」の一節を紹介する。
社会すなわち他人たちのための学問と自分一個のための学問とでは、穏やかな時代には前者が当然尊ばれる。しかし、危機的状況になり実存といった考え方が出てくると、逆転する。ここは視野を広く、大問題をみずから考えうる学者になって、既成の諸学説のブローカーに過ぎぬような学者にはなるな、という意味にとっておきたいと桑原はいう。
「君子の儒」とは天下の事に責任をもち、民が安んずる志を持つもの。
為政者には「君子の儒」が必要なのであろうが、この志を持たない人が長く首班の座にいることの影響は計り知れない。そこから危機的な状況が生まれ、桑原がいう「実存」を考えるようになってしまうと、個人がモラルなく利益ばかり追求するようになってしまうのだろうか。
(参考文献)