樊遅(はんち)稼(か)を学ばんと請う。子曰わく、吾は老農(ろうのう)に如(し)かず、と。圃(ほ)を為(つく)ることを学ばんと請う。曰わく、吾は老圃(ろうほ)に如かず、と。樊遅出(い)づ。
子曰わく、小人なるかな、樊須(はんす)や。上(かみ)礼を好めば、則ち民は敢(あ)えて敬せざること莫(な)し。上 義を好めば、則ち民は敢えて服せざる莫し。上 信を好めば、則ち民は敢えて情を用いざる莫し。夫(そ)れ是(かく)の如(ごと)くんば、則ち四方の民、其の子を襁負(きょうふ)して至らん。焉(いずく)んぞ稼を用いん、と。(「子路第十三」4)
(解説)
樊遅が田の作り方を教えていただきたいと願い出たことがあった。すると孔子は「私より手慣れた農民のほうがよく知っている」と答えた。樊遅は続いて畑の作り方をと言ったので、孔子は「私より手慣れた圃人(はたけつくり)がよく知っているぞ」と答えた。樊遅が退出したあと、孔子はこう言った。
「小人 知識人に終わっているな、樊須は。為政者(指導者)が道徳を大切にするならば、必ず民衆は尊敬する。為政者が道義を重視するならば、必ず民衆は支持する。為政者が誠意を尽くすならば、必ず民衆は言い訳をしなくなる。そのようであれば、四方の人々がぜひにと、その子を襁(むつき)で背負って集まってくるだろう。どうして為政者が農業の振興を第一とすることがあろうか」と。(論語 加地伸行)
「樊遅」、姓は樊、名は須、字名は子遅。孔子の弟子。孔子より36歳年少。同じく孔子の弟子の冉求の供として戦車に同乗し、勇敢に敵軍に攻め込む、勇士と称せられたという。
その樊遅が将来、為政者として立つために、当時の重要産業である農業について知っておこうと思ったと加地はいう。
「小人なるかな、樊須や」
指導者として、教養人たる者には専門的技術、知識よりも、もっと学ぶべきことがあると理解して欲しかったのだろうか。
「稼」は、五穀を種(う)えること。
「圃」は、蔬菜(野菜)を種えること。
いつも勘の悪い質問をする樊遅として扱われ、少しばかり哀れに感じるが、その樊遅の個性が「論語」に色合いを加えているのだろう。
いつの時代でも、様々な個性をもった人間が存在し、すべての人が君子というわけにはいかないのだろう。小人がいるからこそ、君子も存在し得る。君子がいるから、小人の中から君子を目指そうとする人も現れるのだろう。
(参考文献)