「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

【鬼神を敬して之を遠ざくれば、知と謂う可し】 Vol.143

 

樊遅(はんち)知を問う。子曰わく、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざくれば、知と謂(い)う可し、と。仁を問う。曰わく、仁とは、難きを先にし獲るを後にす。仁と謂う可し、と(「雍也第六」22)

  

(解説)

「樊遅が、知者とは何ですかと質問した。孔子はこうお答えになった。「民としてあるべき規範を身につけるように努力し、神霊を尊び俗化しない。そうであれば知者と言える」と。すると続いて、仁者とは何ですかと質問した。孔子はおしゃった。「仁者は、過程を第一とし、結果を第二とする。仁者と言うことができる」と。」論語 加地伸行

  

「樊遅」、姓は樊、名は須、字名は子遅。孔子の弟子。孔子より36歳年少。同じく孔子の弟子の冉求の供として戦車に同乗し、勇敢に敵軍に攻め込む、勇士と称せられたという。しかし、「論語」ではいつも勘の悪い質問をして、孔子に「小人なるかな、樊須」(「子路第十三」4)と言われたりしていると桑原は指摘する。

 

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 桑原の解説

 樊遅の質問に対し孔子が答えたことであるが、桑原は、相手の理解度を考慮して話題を政治家の心得に限り、具体的に答えたものと思われるという。必ずしも人倫一般についていったものとみなくてもよいのではないかという。

「民の義に務める」というには、古注普に従って、人民を教化する道に務めること。

「鬼神を敬して之れを遠ざく」というのは、鬼神はあらたかなものだから敬意をはらうけれども、あまり密着しないということ。

「鬼」は死者の霊、「神」は日本語のカミであって、ゴッドではないという。キリスト教イスラム教は唯一の神がこの世を支配するのだから、敬してこれを遠ざけるといようなわけにはいかないはずであるともいう。無神論になるほかはない。桑原は、デカルトを例にして、デカルトの態度は宗門との正面衝突を避け、ひたすら合理主義的な研究の推進を邪魔されないようにするもので、敬して遠ざくといえるのかもしれないという。

 日本や中国ではカミは無数にあって、おのおのも神の持つ力は絶対的ではないので、孔子の態度も可能となるのであろうという。

 徂徠は、「宋儒の見るところは、鬼神無きに帰す。およそ鬼神無しと言う者は、聖人の道を知らざる者なり」と猛烈に反対するという。孔子を合理主義者とみることを避け、鬼神を尊崇していた者と考えていたようだ。したがって、徂徠によれば「遠之」とは、遠ざけるではなく、「これを遠しとする」、つまり神と人間との間には断絶があり、神は特別なものであるから、ものいみ、供え物、祭器などみな日常的でないのをよしとするのであるという。

 後段についてはいろいろな読みがあるという。古注に従うならば、まず苦労をして功を得ることで、安易な達成を嫌うのを仁とするとなる。

  

 桑原は、この章を政治家の心得というが、自分自身に当てはめてみるのは一考ではなかろうか。

 「鬼神を敬して之れを遠ざく」

 宗教を考えるきっかけになったりはしないだろか。

 

(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

  
論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)

  • 作者:桑原 武夫
  • 発売日: 1985/12/01
  • メディア: 文庫