子曰わく、苟(まこと)に仁に志さば、悪無きなり。(「里仁第四」4)
(意味)
「ひたすらに仁愛の道を志すならば、けっして悪を行なうことはない。」(論語 加地伸行)
この章も、いくつもの読みがあるそうだ。桑原は以下のように解説する。
仁斎は、仁に志せば心もちはゆったりとして人を慈しむことになるから、おのずと人から悪まれることがなくなる、世間は公平によく見ている、と解するのであって説得的だが、それは本当に仁の境地に到達した人についてはいえようが、仁に志し始めただけでそうなるかいささか疑わしい。
そこで私は「苟」の字は仁斎とともに「いやしくも」と読むが、あとは徂徠ととも、仁に志しても人間は「過挙(あやまち)」を犯すことはあるだろうが、ことさら悪事をすることはなくなると読んでおきたい。
わかりきった常識論のように聞こえるが、教育者孔子は人を導くにあたって禁止的であるよりも奨励的な方法の方が有効であることを知っていた。「志す」というところに利点がかかり、これは決意を示す強い言葉であろう。(論語 桑原武夫)
桑原の解説に説得性はあるが、心情的に仁斎の読みを取りたいと思ってしまう。
『仁に志せば心もちはゆったりとして人を慈しむことになるから、おのずと人から悪まれることがなくなる、世間は公平によく見ている』
天皇陛下が「即位礼正殿の儀」で述べられた「国民に寄り添いながら」とのお言葉に仁を志すお姿を見る。
11月10日、祝賀パレード「祝賀御列の儀」で雅子さまが、また涙された。ご苦労が多かったことと推測される。 自然体の雅子さまを見たように感じた。そのご苦労があった分、人を慈しむお心を強くなされたのではないであろうか。
雅子さまの涙にそんなことを感じた。雅子さまは多くの国民に愛される存在になった。
気負わず、自然体で、堪能な外国語で、日本外交をよりよい方向に導いて頂ければと思います。そんな雅子さまをずっと見ていたいと思います。
仁である。何も力強く宣言するのではなく、仁斎の読みのほうが自然に身につくような気がするのは、礼を重んじる皇室のこうした姿をみて感じることである。
(参考文献)