「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

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【過つを観れば、斯ち仁を知る】 Vol.76 ~ラストサムライ西郷隆盛と稲盛和夫

 

 子曰わく、人の過つや、各々其の党に於いてす。過つを観れば、斯ち仁を知る。(「里仁第四」7)

  

(意味)

「人間は、その犯した過ちを処理するとき、それぞれその人の人格的段階(党)に応じた形となる。過ちの始末を見れば、当然にその人間性(仁)が分かる。」論語 加地伸行

 

 桑原は、この章には多くの解があると指摘する。「党」の解釈次第になるようだ。

 『朱子によれば、君子の「党」は人情に厚いためにミスを犯し、小人の「党」は人情に薄いためにミスを犯す。そこでそれぞれの人間の過ちを観察してみれば、その当事者における仁のあり方、つまりその人間の道徳性の高低がわかる、とするのである。

 市井に住む寛容な哲人仁斎にとっては、朱子の解は冷酷に響き過ぎるのである。人間が過失を犯すのは必ず朋類のためにである。だから、他人の過ちを深く咎めてはならないのであって、過ちを犯す人間のうちにも暖かい仁の心は消えていないのだ。そこに仁の本質であることを知るべきである。こう考えて、仁斎は朱子のカテゴリーの一方、つまり、冷酷を切り捨てて、温情の世界に包み込もうとする。

 

 

 ところが、世の中をよくするのは、各個人に自己完成の道によっては困難であって、社会のあり方を全般的に良くするのでなければ不可能である、とするある意味での集団主義者、徂徠は、「党」は郷党でなければならなぬとし、人民が過失を犯すとすれば、それはそれぞれ自分の住んでいる地域社会の感化によるものであるから、人民の過ちのあり方をみれば、そこの支配者である君主の仁つまり道徳の高低、その影響いかんがわかる。だから、君主たる者はいたずらに人民の過失を咎めだてするよりも、まず自己反省すべきだとするのである。

 このように短い章についてすら幾多の解がありうるということは、定言的な戒律としては弱みがあろうが、文学としては暖昧の重層性という美的価値を増すともいえるだろう。』(論語 桑原武夫

 

 

 個人的には、仁斎の仁の解に惹かれるが、徂徠の指摘する「地域社会の感化」にも頷けてしまう。

 仁斎は、「どんな人であっても、暖かい仁の心は消えていない」という。ごく稀な独裁者や凶悪犯を除けば、仁斎の指摘はあっているように思うし、そうでなければ信用社会は成り立たないと思う。その仁に高低があり、徳に差があるのだろう。

 人は間違いなく置かれた環境の感化を必ず受ける。そう思えば、徂徠がいうことにも納得するところがある。徂徠の解に従えば、政治や経営の重要性を認識することになる。徂徠は論語を政治的に解釈する傾向があるからやむを得ないことであろう。また、「子路第十三」11に、「善人 邦を為むること百年ならば、亦以て残に勝ちて殺を去る可し」という言葉も徂徠に正当性を与えるような気もする。

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 政治的なことを抜きにして考えてみれば、どんな人間も好んで過失を犯すものなどいないはずである。過失を犯す、巻き込まれるのはやはり周囲や環境の影響によるものが殆どはなかろうか。それ故に個人としての仁や道徳が求められ、個人に選択の自由が保障されているのではなかろうか。

 

   

 仁を最高位で実践したのが、「敬天愛人」という言葉を遺した最後の武士西郷隆盛であろう。その西郷を敬う稲盛和夫さんが現在の仁の実践者と感じる。

  武士道では義を重んじるが、ラストサムライ西郷は仁を最高の徳としていた、彼の生き様からそう思う。そして、その西郷を敬う稲盛和夫さんは経営において仁を実践し、新・経営の神様と言われる。 

 

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 (参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

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論語 (ちくま文庫)

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  • 作者:桑原 武夫
  • 発売日: 1985/12/01
  • メディア: 文庫
 

 

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