「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

専門家になるべきなのか、それでは何の専門家になるべきか

 

 テクノロジーの進化は止まることはありません。テクノロジーが進歩すればするほどに、新たなテクノロジーが登場するサイクルが早まるのかもしれません。

「ITは日進月歩。情報量も爆発的に増え、ともすればトレンドや情報の海で溺れてしまいそうになる」と日経XTECHがいいます。

次々登場する新技術に追いつけない、ITエンジニアはどうすべきか | 日経クロステック(xTECH)

これからの時代を生き抜くITエンジニアには、技術の目利き力や先見性も大いに求められよう。相談者の言う通り、全てをキャッチアップするのは現実的でない。とはいえ、何が当たるか/外れるかを見極めるのも至難の業である。(出所:日経XTECH)

 次々と登場する新技術に自分は何の専門家になるべきかと悩むエンジニアがいるということでしょうか。

 

 

「技術は、あくまで経営課題を解決する手段でしかない」と記事は指摘します。

その前提を見失うと、技術の押し売りになったり、「そんなことを研究して何になるの?」と悪気なく社内から冷ややかな目で見られ技術者が切ない思いをすることがある。(出所:日経XTECH)

「技術起点のみならず「課題起点」「イシュー起点」の発想も持っておきたい」といいます。

 自分の経験からして、理解できないことではありません。これと思って打ち込んだことでも、上司が変われば、求められることも変わったりします。時々に経営課題も変わり、求められる技術が変わるということもあるのでしょう。

 

 

 大学での専攻をそのまま会社で活かすことができればいいのでしょうが、そうでなければ、入社してからも学ばなければならないことが多々あるものです。学べば知識を得ることはできますが、それでも会社の中で専門家と見てもらえるまでには時間がかかってしまいます。

 中堅社員になりそれなりに自分の専門領域も定まり、マレーシアで仕事をしていたとき、シンガポールでの業務が滞り、自分たちの仕事に影響を及ぼし始めていました。

 そんなとき、シンガポール側から手助けに来て欲しいという要請があり、自分の専門外だったのですが、自分のマレーシアでの仕事に影響することなので、支援することにしました。かつての上司に言われて学んだ技術にかかわることだったのですが、その知識を実践で応用したこともなく、不安だらでした。しかし、それまでの経験と学んだ知識を統合して何とか問題を解決することができました。

 すると、シンガポールで問題が生じるたびに呼び出されるようになって、いつしかシンガポールでの仕事が自分の専門領域になり、社内でも認められる存在になりました。ただ正直に言えば、専門家としてはまだまだ未熟なもので、なおも学びが必要であったことは否めません。それでも、それまでに学んだ知識と経験が役立ったのか、それまでとは違う専門家になったのかもしれません。

論語に学ぶ

達巷(たつこう)の党人曰わく、大なるかな孔子。博学にして名を成す所無し、と。

子 之を聞きて、門弟子(もんていし)に謂いて曰わく、吾 何を執(と)らん。御を執らんか、射(しゃ)を執らんか。吾は御を執らん。(「子罕第九」2)

 達巷の人が、「孔子さまはやはり偉大なかただ、色々なことを学ばれたが、とくに有名な専門といわれるものをお持ちにならないのだから」といったといいます。

 孔子はたいへんな博学だったが、専門家づらをしたことがない。それを褒めた言葉に孔子は気が和み、「それじゃ、私は何を専門にすればいいのかな。御者になろうか、射者になろうか。私は御者がいいな」と、側近の弟子たちにややユーモラスにいったといいます。

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 「執」とは、専門にすることをいうといいます。孔子の生きた時代には、「礼」「楽」「射」「御」「書」「数」を六藝といって、紳士の知っておかねばならぬ課目であったといいます。

 孔子は専門であろう「礼」と「楽」をあえて言わず、「御」と「射」をもち出したことが面白いと、桑原武夫はいいます。当時の風潮からすれば、これらを専門とすることはあまり立派なことではなかったといいます。

車を動かせ、ゴルフがうまいのはいいが、運転手、プロゴルファーは、お金が入っても社会通念では上流紳士とはみなされない。それを専門が必要というなら、僕は運転手だね、と、このような感じで孔子がにこやかにいったのである。(引用:論語 桑原武夫

「今も昔も専門の看板を掲げて、この一筋に生きている、ほかのことについては一切無知であるという顔するのが、純粋に見えて出世の早道である。その一方で、雑学はいつも貶(けな)し言葉である」と文学者の桑原武夫はいいます。 

 

 

 孔子の時代に「六藝」が求められたように、現代の企業人にも求められているものがあるのでしょう。

 孔子の弟子の子夏は、「百工(ひゃっこう)は肆(し)に居(お)りて以て其の事を成し、君子は学びて以て其の道を致す」(「子張第十九」7)といいました。

「工(たくみ)は作業場においてその技(わざ)を磨き、その技を使って物を作り、販売する。君子は広く深く学ぶことで道を磨き、実践し、人格の完成に至る」と意味します。

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 古代人は自分でモノを作り、売っていたのでしょうか。今では分業化が進み、それぞれに専門家が求められるようになっています。

 それぞれの専門家として、さらに高みを目指して、それに磨きをかけていってもいいのでしょう。また、横に広く、そしてさらに深く学ぶことで君子に近づいていくのいいのかもしれません。学びに終わりはないのでしょう。