三家者(さんかしゃ)雍(よう)を以て徹す。子曰わく、相(たす)くるもの維(こ)れ辟公(へきこう)あり。天子穆穆(ぼくぼく)たり、と。奚(なん)ぞ三家の堂に取らん、と。(「八佾第三」2)
(意味)
「三家老が彼らで祖先祭祀を行ない、最後に供え物を下げるとき、天子の場合と同じく、雍の詩ならびにその楽を演奏していた。これを孔子は批判された。「雍の詩に、祭りの助力に集える諸侯がた。天子は気高く奥床しとある。三家老の祭祀を行なう堂に諸侯が応援に来るはずもないし、彼らの天子気取りは僭越。そこから、どうして雍の詩の意味を取れようか」と。」(論語 加地伸行)
「雍」は、詩の一つ。「徹」は、饌(供え物)を祭祀が終わって下げること。「徹饌」という。
「堂」は儀式を行う正庁のこと。
「三家」は、魯国の臣下ながら実力者であった三桓 孟孫氏、叔孫氏、季孫氏のこと。魯君と三家との間には絶えず対立する緊張関係があったといわれ、孔子は魯君のために働こうと思っても、実質的には三家と妥協しながら、君主の地位や力を高めようとした。
「論語」の中で、三家への批判の言葉がある一方で、三家との交流が描かれるのはそのためであると加地はいう。
上皇になられた明仁天皇。そして、 徳仁さまが令和の象徴天皇となった。11月10日に天皇陛下の即位を祝うパレード「祝賀御列の儀」が行われた。
昭和期までは、天皇はいろいろと政治の道具としても利用されてきたのでなかろうか。そう思うと、昭和天皇のご苦労は計り知れないものであったのであろう。戦後に即位された明仁さまは象徴天皇として、天皇の新たな形をお示しくださった。国民と天皇の距離が縮まったとも言われる。
天子穆穆たり
明仁さまの言動に、そのお姿をみたような気がする。沖縄や戦争激戦地のご訪問、被災地へのご訪問、そして、その場所、その時々でのメッセージ。象徴天皇のあり方をご自身で定義されてきたように思う。
徳仁さまも、皇太子時代からより国民と同じように暮らしているよう、うまく情報伝達されてきたと思う。
天子穆穆たり
明日、11月10日、 徳仁さまの「祝賀御列の儀」となる。新たな象徴天皇像をお作りになられていくのであろうか。
(参考文献)