子曰わく、性 相(あい)近し。習い相遠し。子曰わく、唯(ただ)上知(じょうち)と下愚(げぐ)とは、移らず。(「陽貨第十七」2)
(解説)
孔子の教え。「人は先天的に差はない。後天的に差が生まれてくるのだ」。
孔子の教え。「天才と凡才とは、どのようにしてもその差は埋められない」。(論語 加地伸行)
人が生まれ持っているのは本能であって、それには差がないが、その後の学習によって差が生じるということなのであろう。
「学習」とは、先生から読み聞かせられて、それを覚えこむこと「まねび」、「習」は教わったことのくりかえしの実習。つまり「学ぶ」とは知ることであり、「習う」とは知ったことを実際にやってみることと桑原は解説する。
乳幼児期から、学問としての学習ではないにしても、学習は始まっているのだろう。それに個々の個性が生まれ、人格が形成されていくということであろうか。
上知と下愚とは移らず
賢明な人は、悪い境遇や環境に左右され堕落することがなく、一方、愚かな者は、どんなに良い境遇や環境のもとにおかれても賢者にはなれない。
加地は「上知」を天才と解し、「下愚」を凡才と解す。
ならば、「天才」とはどんな境遇にあっても学習を続けることのできる人と言えるのではなかろうか。
疑問があるとするなら、「賢者」「愚者」、「天才」「凡才」は生まれ持ったものなのだろうか。生まれた瞬間から始まる「学習」によって差が生まれるような気がする。
孔子の教えに従うなら、一度身について愚かな性格も、その後の学習で、それを続けるなら変えていくこともできるということなのかもしれない。そうであっても、「気づき」があって知り得ることができるのだろうし、「理解」があるからそれを身に着け、人格を変えていくことができるのだろう。
「関連文書」
(参考文献)