「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

憂鬱な今年の10大ニュース 無為として化せば、もっとよくなったはずなのに

 今年の10大ニュースが、報道されています。ニュースを見て振り返れば、激動の1年だったということでしょうか。

 米国で1月バイデン政権が発足し、トランプ政権で乱れた秩序が回復するのかと期待しましたが、米中対立はさらに激化し、期待し過ぎたのか、成果があまり見られていないように感じたりします。

 民主主義の退潮が指摘されるようになり、権威主義が台頭しているといわれます。アフガニスタンではタリバン復権し、ミャンマーではクーデターが起き、未だ収束せず、多くの人が武力弾圧の犠牲になっています。香港ではリンゴ日報が廃刊に追い込まれ、民主派が弾圧されました。

 ウクライナ国境では緊張が高まり、台湾海峡でもきな臭さが増しているようです。1月、バイデン大統領の正式認定手続きを進める議会にトランプ支持者が乱入し、犠牲者が出ました。当の本人は選挙での敗北を認めようとしなかったことが背景にあったのでしょうか。中国では11月、40年ぶりに歴史決議が採択され、習主席の3期目突入が確実視されるようになったといいます。  

 

 一方、コロナは一向に衰えを見せずに猛威を振るいます。世界的大流行、パンデミック。世界での感染者数が2億5000万人を超え、死者も500万人を超えているそうです。人類の叡智を結集すれば、収束するのかと思いきや、そうはならずに現在に至っています。

 日本国内でも緊急事態宣言が繰り返されては解除となり、また宣言が出される事態になりました。国内でワクチン接種を進めた政権が、対策が後手に回っていると批判され退陣し、新しい政権が誕生しました。しかし気づけば接種率は7割を超え、世界トップクラスだそうです。

 しかし、そのワクチンは途上国にはまだ十分に行き届かず、不公平さも否めません。ワクチン製造がほんの一握りの企業でなく、もっと多くの企業で製造されれば、接種も進み、もう少し早くパンデミックが収束するのかもしれません。

 これが正しい経済の論理なのかもしれませんが、救えない命が多数あったかと思うと矛盾を感じたりもします。もっと国際協力があればいいのでしょうが、そうならないのが現代のようです。 もっと環境を重視する思考が定着すれば、改善があるのではないでしょうか。結局、自国だけのことを考えていても世界はつながっていて、ウィルスは国境を越えてやって来てしまいます。気候変動の問題と根っこはおなじなのではないでしょうか。世界が協調しなければ地球の二酸化炭素の濃度を下げることはできません。  

 

論語の教え

「政を為すは徳を以てす。譬(たと)うれば北辰の其の所に居りて衆星之と共にするが如し」と、「為政第二」1にあります。

 論語 500余りの章句の中で好きな章句のひとつです。 前段の「政を為すは徳を以てす」の解釈がいくつかとあるといいます。穏当に読めば、「為政者は民衆の模範となる有徳者でなければならない」ということなのでしょうが、知力(理知と権力)に頼らないで、為政者の徳性によって教化すること、言い換えれば、「無為にして化す(=自然のままで人の手を加えないこと。支配者が特段何かをしなくても、その徳で自然に治まること)」ことだという解釈もあるそうです。

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 吉川幸次郎は「徳による政治の効果の比喩として美しい」と解説しています。漢の鄭玄の説に従い、夜空に散らばる星たちが北極星を中心にして回転する様は、それはあたかも北極星にむかっておじぎし、挨拶しているようだといいます。げすな意見なのかもしれませんが、徳に拠る政治の当然の結果として、礼儀正しい、モラルを尊ぶ社会になっていくということなのでしょうか。

 桑原武夫は「君主、為政者はつねに人民をわが子のように愛するとするという基本姿勢において、人民の生活にできるだけ干渉しないようにして、ただ災害から守る配慮をしつつ、最低の租税をとりたてさせる」ということが「政を為すは徳を以てす」ということであろうと解説します。

 

 

 現代の政治はこうした理想から遠く、無為にして化すではなく、動き過ぎるのがよろしくないのかもしれません。今、世界はコロナや気候変動という未曾有の災禍に悩まされています。この解決にまず尽力するのが為政者の務めなのでしょう。様々な利得を考えるから複雑化し、対応が後手に回るのではないでしょうか。現実にはできないことなのかもしれませんが、だからこそ、それを目指すべきということなのかもしれません。

 さてさて、来年はどうなるのかと気が揉みます。何はともあれ災禍がないのが一番です。良い年になることを願うばかりです。

 

忘れてはならない政治家による私物化、忘れられた良心

 

 NTTが、調達先の人権監査を2022年から始める方針だという。年間40~50社の実地監査を行い、人権の遵守状況を確認するそうだ。

 対象は国内外の取引先で、富士通NEC、アップルやアマゾン、マイクロソフトなどが含まれるという。これまでは年に1度、労働環境に対するアンケート調査のみで、現地確認は行っていなかった。大口調達先に出向き、虐待や差別の有無、安全・衛生管理の状況確認、問題があれば是正を促し、対応しない場合は取引停止にするそうだ。

 背景には、欧米で「人権デューデリジェンス」を義務付ける法整備が進んでいることもあるようだ。アクションが遅いようにも感じる。これがきっかけにして、国内企業においても同様の動きが増えればいいのだろう。

 NTTが監査する企業には、既に人権に関して取り組みが進んでいるところも含まれるのだろう。監査することでそうした先駆的事例を学ぶ機会にもなるのかもしれない。

 しかし、人権に関して、なぜ、こうも国内企業の対応が遅いのだろうか。企業の関心が低かっただけのことなのだろうか。それとも政府方針の影響もあったりするのだろうか。  

 

桜を見る会

桜を見る会」の一連の問題で、東京地検特捜部は嫌疑不十分で不起訴にしたという。この結果を受け、捜査は事実上終結するそうだ。

桜を見る会」、毎年春に各界で功績のあった人を慰労する目的で開催されていたという。その会の前日には都内ホテルで格安の夕食会が開かれ、当日の桜を見る会には、預託商法で起訴された人物を招待していたのではないかとの疑惑もあった。こうした行為は「私物化」と揶揄、批判され、問題指摘された国会では虚偽答弁を繰り返していたと事実が残った。また、この疑惑に満ちた桜を見る会に関係する資料は廃棄され、公的文書のずさんな管理が明るみになった。

 法に抵触しなければよいというような雰囲気が蔓延することになったのではなかろうか。法治国家の瓦解といっても言えそうな事態と危惧を感じていた。

孔子 季氏を謂う。八佾 庭に舞わしむ。是れ忍ぶべ可んば、孰れを忍ぶ可べからざらん」と、論語「八佾第三」1にある。

 魯国の実力者季氏が、君主の桓公の分家ということをいいことに、天子の真似をして、天子のみが行っていた八佾の舞を行うようになり、これを知った孔子が、天子と同格になると、批判したのがこの章の意味といわれる。

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桜を見る会」、天皇陛下が模様される「園遊会」を模してのことなのだろうか。首相してはずいぶんと僭越な行為だったのかもしれない。コロナ禍前のことはいえ、社会課題が山積し、その解決が求められる中で、こうしたことを国のリーダーが平気でできてしまうのだから良心も何もない。そのリーダーだった人がいま与党最大派閥の会長に君臨している。  

 

論語の教え

「人にして不仁ならば、礼を如何せん。人にして不仁ならば、楽を如何せん」と、「八佾第三」3にある。

「仁」とは、主として人間に対する愛情を意味し、広くは人間として備えているもの、「人道」、「人格」をさすといわれる。礼楽は仁から生まれたものといわれ、不仁なる者が礼楽を知るはずもない。

 萩生徂徠は、この章は「上にある人」への教えだと解し、仁は「安民の徳」であって、天下を安んじることのできないものが、礼楽を行うことは出来ないと読む。 上にあるものが、利己的に振舞って、天下が安んじることはあるのだろうか。

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桜を見る会」も、慰労目的であってにも関わらず、実際には異なったものになったのも、不仁なる者が執り行ったからなのだろう。これがどんな影響を社会に残したのだろうか。企業の人権に対するアクションが遅れたことも理解できる。

 もうひとつの与党の元議員が貸金業法違反の罪で在宅起訴された。こうしたことも悪影響のひとつとしてあげてもいいのではなかろうか。

 

そのミスが許せない、そんなことを感じることがありますか

 寒い日が続いています。今日明日は少し寒さが緩むと聞くとほっとしますが、また、年末年始は寒さがぶり返すようです。寒さ嫌いの年老いた母はこの季節になると、石油ストーブの前から動こうとしません。そんな母にとって、この季節は、灯油はなくてはならないもの。先日、灯油の配達を頼んだときのこと、配達員が計算ミスをおかしたようで、後日、電話で事情説明があり、請求書の差し替えをしたいとのことでした。請求金額を間違えることはあってはならないことですが、間違いがあったときの対処の仕方におやっと感じるものがありました。

 過小請求でもあったし、時にミスはあるもの、さほどめくじらを立てるようなものでなく、ササっと処置できればといいと思ったのですが、先方が謝罪しまくりで、その上電話口からも何かおどおどしていることが伝わってきました。気の毒に感じてしまいました。過去に何かに苦い経験でもあったのでしょうか。些細のミスも許されなくなってきたとの声も聞きます。

 

 

人はなぜ過ちをおかすのか

 大阪のクリニックでおきた放火事件の背景が少しずつ解明されてきたのでしょうか。ある犯罪心理学の専門家が「入念な計画は本来、自分が捕まらないように、助かるように練るもの。自分自身を巻き込むのは極めて異質で、深刻」と述べていました。

 とある新聞は「孤独」がその背景にあるようだと指摘し、過去の「過ち」を許容できない社会の問題を指摘する専門家の話を紹介していました。ちょっと息苦しい世の中になってしまっているような気がします。

「人の過つや、各々其の党においてす。過ちを観て、斯(ここ)に仁を知る」と「里仁第四」7にあります。

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 この言葉には3つの読みがあるといい、朱子は「君子の党は人情に厚いためにミスをおかし、小人の党は逆に人情に薄いためにミスをおかす。それぞれの過ちを観察すれば、その当事者の仁のあり方がわかる」といいます。一方、伊藤仁斎は「人間が過失をおかすのは朋類、「親戚僚友」のためで、他人の過ちを深く咎めてはならず、過ちをおかす人間にも仁の心は消えておらず、そこにある仁の本質を知るべきとします。

 これに対し、萩生徂徠は、人が過失をおかすとすれば、それはその人の住む地域社会の影響によるものであるから、その過ちを見えれば、その地域の支配者の仁、道徳の高低がわかるといいます。

 ここ最近、痛ましい事件や様々な犯罪が増えているように思います。徂徠の読みに従えば、私たちが暮らす社会や為政者の影響がこうした犯罪を生み出しているということなのでしょうか。

 

 

論語の教え

「我 未だ仁を好む者も不仁を悪(にく)む者を見ず。仁を好む者には、以て之を尚(くわ)うる無し。不仁を悪く者は、其れ仁を為さんとす。不仁なる者をして其の身に加えざらしめず」と、「里仁第四」6にあります。

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 孔子は、ほんとうに「仁」を好む人物、「不仁」を憎むような人にであったことがないといいます。もちろん、仁を好むということは最高なことなのでしょうが、一方で、「不仁」を憎む人もいるといいます。

 そういう人たちは自分の中に「不仁」をいれまいとし、それをもって「仁」を為そうとするといいます。 もしかしたら、この「不仁」を悪く人が増えているのかもしれません。孔子はこの「不仁」を悪く人を否定するようなことはありませんが、弟子の子貢にこう言っています。

「忠告して之を善導し、可(き)かれざれば則ち止む。自ら辱しめること毋(なか)れ」(「顔淵第十二」23)。

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 子貢は孔子の弟子の中で第一の秀才といわれ、貨殖の才にも長け、金持ちにもなったといいます。そんな人物でさえ、過ぎるということがあるのでしょうか。

 時に人は必要以上に善導しようとしたりするのかもしれません。それが息苦しさにもつながったりするのでしょうか。そうであれば、それは「仁」ということではないのかもしれません。

 

富の集中と格差社会 満足すべきことは「奪う」ことではない

 世界上位1%の資産が、世界全体の個人資産のおおよそ38%であったとの報告書がまとまったという。コロナ禍による景気刺激策で株価が急騰したことも格差拡大の一因といわれる。日本においても世界全体に比して顕著ではないものの、広がった格差に改善は三らていないとの結果となっているようようだ。

 こうした状況の改善策を世界の国々は見出すことができず、日本においても同様で、親から子への「貧困の連鎖」が深刻とも言われる。「新しい資本主義」が定着すれば、こうした問題は解決に向かうことはあるのだろうか。

 

 

人から欲しいものを奪い取らないと、満足できなくなってしまう

「君子は食飽くを求むること無く、居安きを求むること無し。事を敏にして言に慎む。有道に就いて正す。学を好むという可きのみ」と、論語「学而第一」14にある。

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 君子はたらふく食べ、安楽な住居に暮らすことはさして難事ではないが、そんなことに満足してはならない。公の事に務めるべきで、その才、行動の敏捷、発言の慎重さが求められ、道に従い自分の行いを正す。こうしたことができる人が学を好むと言えると意味する。

 こうした言葉が理解されていれば、格差が年月に従い広がっていくことはないのだろう。

 科学知識が進歩し、産業が興り、利益が増大する、そのための学問も発達し、歓迎され、おおきな勢力になったと渋沢栄一が「論語と算盤」で指摘している。それによれば、豊かさと地位を求めることは「人間の性欲」と等しく、初めから道徳や社会正義の考え方がない者に、利益追求の学問を教えてしまえば、火に油を注ぐようなものだという。

 自分が関わる事業を繁栄させようと、努力するのは実業家として立派なことだ。また、株主の利益に忠実なのも悪くはない。しかし、こうした気持ちが実は自分の利益だけを図ろうとする利己心でしかないなら、これは問題であると栄一はいう。

「人から欲しいものを奪い取らないと、満足できなくなってしまう」という孟子の言葉につながることを危惧する。

 

 

論語の教え

 何事にも競争はあるものだが、度が過ぎれば道徳を失うことになると栄一はいう。

 読書にも競争があり、徳の高い低いにも競争はあるが、これらは激しい競争ではない。「あいつよりも、財産を多く持ちたい」と始まると、「目的のために手段を選ばず」というようになることがある。つまり同僚を騙し、他人を傷つけ、自分自身を腐らせてしまう恐れがある。「財産をつくれば、仁の徳に背く」だという。

 一方、論語には「苟(いや)しくも、仁に志せば、悪をなす無き也」(「里仁第四」4)にある。 

 萩生徂徠は「仁に志しても人間は過挙(あやまち)を犯すが、ことさら悪事をすることはなくなる」と読み、一方、伊藤仁斎は「仁に志せば、人を慈しむようになり、おのずと悪(にく)まれることがなくなる」と読む。

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 道理に従って世の中をみてみれば、 格差が広がるのもよくわかる。いわゆる富裕層の人たちに君子の心構えが備わればいいのだろう。「学ぶ」ということは何かと考えさせられる。

 

青天を衝けの最終回と渋沢栄一の「論語と算盤」

 渋沢栄一が主人公であったNHK大河ドラマ「青天を衝け」が最終回となってしまった。江戸末期から明治経て、昭和の時代に至るまで活躍し、現代につながる礎をきた偉人の足跡を改めて振り返る機会になった。手元にある栄一関係の書物をまた読み返したりもした。

 栄一の著作である「論語と算盤」の最終章にどんなことが書かれていたかと気にかかり、改めて目を通してみれば、「仕事とは、地道に努力していけば精通していくものだが、気を緩めると荒れてしまう」、「人の常に抱くべき人道とは、何より良心と思いやりの気持ちを基盤にしている。仕事には誠実かつ一生懸命取り組まなければならない」、などとごく当たり前のことが書かれていた。

 

 

論語と算盤」の最終頁には次のようなことが書かれていた。

「正しい行為の道筋は、天にある日や月のように、いつでも輝いていて少しも陰ることがない。だから、正しい行為の道筋に沿って物事を行う者は必ず栄えるし、それに逆らって物事を行う者は必ず滅んでしまうと思う。一時の成功や失敗は、長い人生や、価値の多い生涯における、泡のようなものなのだ。ところがこの泡に憧れて、目の前の成功や失敗しか論ぜられない者が多いようでは、国家の発達や成長が思いやられる。なるべくそのような浅はかな考えは一掃して、社会を生きるうえで中身のある生活をするのがよい。(引用「論語と算盤」渋沢栄一 P220)

 今年もまた大企業での問題が明るみになった。みずほ銀行でのシステムトラブルや三菱電機の検査不正にはただ驚いた。栄一が後世に残したこうした訓戒を守ることができなかった当然の報いなのかもしれない。

 また、栄一は「現代人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことだけを眼中において、それよりもっと大切な「天地の道理」を見ていない。彼らは金銭や財宝を魂としてしまっている。人は、人としてなすべきことの達成を心がけ、自分の責任を果たして、それに満足していかなければならない」という。  さらに「天」とは、天地と社会との間に起こる因果応報の原則を「偶然に過ぎない」としないで、これらを天からくだされた運命だと考えて、「恭 = 礼儀正しくする」「敬 = うやまう」「信 = 信頼する」の気持ちをもってのぞんでいくという。

 

 

 SDGsにESG、ステークホルダー資本主義など、現代の正論が説かれるようになったが、なかなかそれを実践できていないということなのだろう。実践ができないからこそ、「正論」を説く必要もあるのだろう。

「社会の進歩とともに、秩序が整ってくるのは当然のことであるが、それとともに新しい活動が始めにくくなり、自然と保守に傾くようにもなる」と栄一はいう。 「もちろん軽はずみな行動は、どんな場合でも慎むべきだが、あまりにリスクばかりを気にすると決断がつかなくなり、硬直しきって、弱気一辺倒に流れがちになる。その結果、進歩や発展を邪魔する傾向が生まれてしまう。個人においても、国家の前途に関しても、これは憂うべき事態といわなければならない」ともいう。

 企業には「非財務情報」の開示も求められるようになり、栄一が抱いた危惧を改善するような動きもある。ただ、いくらルールに縛ったところで、ルールを守るという「礼」、そして栄一がいう「恭」という心がなければ、またいつかは廃れることになってしまう。 「論語と算盤」、道理と事実と利益とは必ず一致するものである。空虚な理論に走ったり、中身のない繁栄をよしとするような国民では、本当の成長とは無関係に終わってしまうと栄一はいっている。

 経済が好調だった昭和の時代、多くの経営者たちが「論語」を愛読書にあげていた。それが「論語」に興味を抱くきっかけだった。当時の経営者には、栄一の教えが息づいていたのかもしれない。今また、「論語」、道理を学び直すときなのかもしれない。

 

いつになったらパンデミックは終焉するのだろうか、気になる変異株の市中感染 ~ 炉辺閑話 #79

 

 今年の年末年始もまた新型コロナとともになのでしょうか。折角鎮静化したかとみえた感染状況が、数は少ないものの増加に転じ、オミクロン株の市中感染の例も増えているようです。人が移動している限り、一定程度の拡大は免れそうにありません。なかなか警戒を緩めることが出来そうにありません。また注意喚起が発せられています。

コロナ対策も充分ではないかもしれませんが、それでも昨年よりはましになり、経験も増しているので、感染の波が大きくならずにやり過ごせればと願うばかりです。

 

 

 

論語の教え

「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのち)ながし」と、「雍也第六」23にあります。

 人間のタイプには「知者」「仁者」の2種があって、その優劣ではなく、「楽」のあり方を説いているといわれます。孔子も水も美しい、山も美しいとし、一方に偏ったことではないといいます。 「理想的に言えば、人は絶えず動いてばかりいて水のみを楽しむ知者となるばかりでなく、また絶えず静かにしてばかりいて山のみを楽しむ仁者になるのでなく、沈厚にして機敏、機敏にして沈厚、よく静と動とを兼ね、水も山も共に合わせ楽しむ者とならねばならぬのである」と渋沢栄一が解説しています。

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 栄一は、「私の如き薄徳菲才の者は、到底一身で静と動とを兼ね、山と水とを併せ楽しむというまでになれないのである。しかし、私は山よりも水を楽しむとか、あるいは水よりも山を楽しむとかいうように、一方に偏する者とならず、山をも水をも、水をも山をも合わせ楽しむ事にしている」といい、「私には、世間の皆様の如く、山に遊びたいとか水に遊びたいとかいう如き、山水に対する執着心が無い」といいます。

 栄一がこう感じるのも年齢を重ねた結果のことなのでしょう。ただ、「如何に老齢になったからとて、今後もなお遊んで楽しむというような事は絶対致さぬ覚悟である。私は飽くまでも享楽主義を排斥するものだ」といい、栄一らしさなのでしょうか。 「私が真に楽しく感ずるのは、論語の話をするとか、養育院その他の公共事業のために奔走するとかいう事である。これが私に取って何よりの楽しみだ」といっています。

 

 一方、文学者桑原武夫は、知者が楽しむの「楽しむ」には上品な意味での快楽の語感があるといい、仁者は快楽を否定する禁欲主義者ではないのだけれども、歓楽を楽しみまで減速濾過することによって、生命を静かに永くするのであると解説します。 このご時勢からすれば、この休暇は仁者のように振舞って、これまで知っている楽しみではなく、「楽」に別の意味の楽しみを見つけるといいのかしません。

「快楽」とは、生きていることの楽しさを感じるということでしょうか。「歓楽」は、感覚を楽しませる喜びといいます。

 しかし、いつになったらパンデミックは終焉するのでしょうか。欧米でまた感染者が過去最高を更新しているといいます。ただただ新たな変異株が登場せずに収束に向かうことを願う今日この頃です。

 

「あまりにも怠慢」、「ものが言えない風土」の三菱電機の再生はあるのか ~ 炉辺閑話 #78

 

  三菱電機が、発覚した検査不正などを検証する外部委員会の「調査報告書」を公表した。その要約版について確認したが、その内容に驚く。朝日新聞によれば、委員長の山口利昭弁護士が「日本のものづくりへの信頼を揺るがす問題だ」と指摘したという。

 こうした報告書においては、問題点を強調して書かれることが常なのだろうが、それにしても指摘内容があまりにも基本的なことを糾弾しており、問題の根深さ、大きさを感じとれる。また、萩生田経産相は「やるべき検査をしていなかったのはあまりにも怠慢」と厳しく指摘し、原因究明や組織改革を進め、信頼回復に取り組むよう求めたという。

三菱電機の検証委、悪質と指摘 「日本のものづくりの信頼揺るがす」:朝日新聞デジタル

報告書で「管理職レベルの社員が長期間にわたって品質不正行為を自ら実行、または黙認していた極めて悪質かつ反倫理的な事案」だと断じた。

経営責任については、3回の「総点検」があったにもかかわらず不正を見つけられなかった2016年以降の歴代社長ら14人について認定した。山口氏は「品質不正の問題が会社自身の信用を毀損(きそん)する重大な問題に発展するリスクだという認識が甘かった」ことなどを理由に挙げた。(出所:朝日新聞

 

 

「ものが言えない風土」、倫理観や規範意識の低下

 三菱電機が公表した報告書(要約版)には信じ難い文言が並ぶ。「規定された手続により品質を証明する姿勢の欠如と「品質に実質的に問題がなければよい」という正当化、誤った正当化が横行していた背景には、顧客との約束を守る、法令や規格を遵守するといった、ビジネスの根幹に関わる倫理観や規範意識が低下していたという事実も存在していた」。

「長崎製作所の上層部は、帳尻合わせや自己保身に走る人しかいなかった」。少なくとも言えることは、長崎製作所の管理職層と担当者との間で信頼関係が成立していなかったということであり、そのような状態では、管理職が現場の問題を把握することができないことは明らかである。

三菱電機においては、歴代の執行役社長が拠点を定期的に巡回して従業員と直接対話を行うこと等に取り組んでいるが、「ものが言えない風土」を是正しない限り、「ものが言えない」と考えている多くの従業員の声を拾い上げることはできないことに留意して、経営陣が、その本気度を示して、組織風土の改革を推進していく必要がある」。

 同じく三菱電機から公表されて再発防止策について目を通してみる。実態が正確に分かっていないので何とも言い難いが、まだ一抹の不安も感じる。この先の経過を見ていくしかないのだろう。

 一時は大手電機メーカに身を置き、その競合がこんな実態であったかと知ると、残念でならない。たまたま扱った製品の顧客が海外のPCメーカで、製造現場が品質システムに従い正しく運営されているかを定期的に監査する仕組みがあり、洗いざらいにチェックを受け、不正とみなされれば、そこで取引が終わるというこうとで常に緊張を強いられていたことを思い出す。一方、取引のあった日本の電機メーカ(三菱とは取引はなかった)はそこまで厳しいチェックがない。文化の差なのかもしれない。もしかしたら、そこから甘えが生じたりするのだろうか。

論語の教え

子路曰わく、仕えざれば義無し。長幼(ちょうよう)の節は、廃す可からず。 君臣の義は、之を如何ぞ其れ之を廃せん。其の身を絜(いさぎよ)くせんと欲して、大倫(たいりん)を乱る。君子の仕うるや、其の義を行なう。道の行なわれざるは、已 (すで)に之を知れり」と、「微子第十八」7 にある。

 弟子の子路孔子のお供をしていて遅れ、隠者に出会い、その隠者の子息に語った言葉である。

「主君に仕えないと、君臣の契りがなく、君と臣とが守る倫理が生まれないで終わる。長と幼とが守る礼節はなくてはならないものである。君臣の倫理、これをどうしてよいものであろうか。乱世に身を汚さないという小倫理を守ろうとするのは、君臣の大倫理を乱すこととなる。君子 教養人が出仕しようとするのは、この大倫理を行なわんがためである。乱世のため道義が行われていないことは、重々承知の上である」との意味。

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 こうした道徳の言からしても、「ものが言えない風土」、如何に三菱電機の倫理が乱れていたかが理解できる。

 米系PCメーカとの取引ではある意味、品質にコスト、納期と、常に「監視」されている状況でもあった。しかし、それはコミュニケーションの起点でもあり、より良い「品質」「コスト」「納期」を協力して作り上げていくこと活動にもつながっていたと思われる。さらけだすことは恥かもしれないが、さらけだすことで良い方向に向かうこともある。

「忠恕」、自己の良心に誠実になり、顧客に対し思いやりを持って接する、それが基本なのであろう。地に落ちれば、あとは上昇があるはずである。早期の再生を願うばかりである。