「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

そのミスが許せない、そんなことを感じることがありますか

 寒い日が続いています。今日明日は少し寒さが緩むと聞くとほっとしますが、また、年末年始は寒さがぶり返すようです。寒さ嫌いの年老いた母はこの季節になると、石油ストーブの前から動こうとしません。そんな母にとって、この季節は、灯油はなくてはならないもの。先日、灯油の配達を頼んだときのこと、配達員が計算ミスをおかしたようで、後日、電話で事情説明があり、請求書の差し替えをしたいとのことでした。請求金額を間違えることはあってはならないことですが、間違いがあったときの対処の仕方におやっと感じるものがありました。

 過小請求でもあったし、時にミスはあるもの、さほどめくじらを立てるようなものでなく、ササっと処置できればといいと思ったのですが、先方が謝罪しまくりで、その上電話口からも何かおどおどしていることが伝わってきました。気の毒に感じてしまいました。過去に何かに苦い経験でもあったのでしょうか。些細のミスも許されなくなってきたとの声も聞きます。

 

 

人はなぜ過ちをおかすのか

 大阪のクリニックでおきた放火事件の背景が少しずつ解明されてきたのでしょうか。ある犯罪心理学の専門家が「入念な計画は本来、自分が捕まらないように、助かるように練るもの。自分自身を巻き込むのは極めて異質で、深刻」と述べていました。

 とある新聞は「孤独」がその背景にあるようだと指摘し、過去の「過ち」を許容できない社会の問題を指摘する専門家の話を紹介していました。ちょっと息苦しい世の中になってしまっているような気がします。

「人の過つや、各々其の党においてす。過ちを観て、斯(ここ)に仁を知る」と「里仁第四」7にあります。

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 この言葉には3つの読みがあるといい、朱子は「君子の党は人情に厚いためにミスをおかし、小人の党は逆に人情に薄いためにミスをおかす。それぞれの過ちを観察すれば、その当事者の仁のあり方がわかる」といいます。一方、伊藤仁斎は「人間が過失をおかすのは朋類、「親戚僚友」のためで、他人の過ちを深く咎めてはならず、過ちをおかす人間にも仁の心は消えておらず、そこにある仁の本質を知るべきとします。

 これに対し、萩生徂徠は、人が過失をおかすとすれば、それはその人の住む地域社会の影響によるものであるから、その過ちを見えれば、その地域の支配者の仁、道徳の高低がわかるといいます。

 ここ最近、痛ましい事件や様々な犯罪が増えているように思います。徂徠の読みに従えば、私たちが暮らす社会や為政者の影響がこうした犯罪を生み出しているということなのでしょうか。

 

 

論語の教え

「我 未だ仁を好む者も不仁を悪(にく)む者を見ず。仁を好む者には、以て之を尚(くわ)うる無し。不仁を悪く者は、其れ仁を為さんとす。不仁なる者をして其の身に加えざらしめず」と、「里仁第四」6にあります。

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 孔子は、ほんとうに「仁」を好む人物、「不仁」を憎むような人にであったことがないといいます。もちろん、仁を好むということは最高なことなのでしょうが、一方で、「不仁」を憎む人もいるといいます。

 そういう人たちは自分の中に「不仁」をいれまいとし、それをもって「仁」を為そうとするといいます。 もしかしたら、この「不仁」を悪く人が増えているのかもしれません。孔子はこの「不仁」を悪く人を否定するようなことはありませんが、弟子の子貢にこう言っています。

「忠告して之を善導し、可(き)かれざれば則ち止む。自ら辱しめること毋(なか)れ」(「顔淵第十二」23)。

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 子貢は孔子の弟子の中で第一の秀才といわれ、貨殖の才にも長け、金持ちにもなったといいます。そんな人物でさえ、過ぎるということがあるのでしょうか。

 時に人は必要以上に善導しようとしたりするのかもしれません。それが息苦しさにもつながったりするのでしょうか。そうであれば、それは「仁」ということではないのかもしれません。