渋沢栄一と岩崎弥太郎、同時代に生きた日本を代表する経済人である。
日本の資本主義の父と言われる渋沢栄一、弥太郎は坂本龍馬の意志を引継ぎ海運で、今に至る三菱を創業した。栄一は「論語と算盤」を残すほどに論語を愛したが、弥太郎は漢詩を愛し、論語は苦手にしていたようだ。
子曰わく、我未だ仁を好む者も不仁を悪む者をも見ず。
仁を好む者には、以て之に尚(くわ)うる無し。不仁を悪む者は、其れ仁を為さんとす。不仁なる者をして其の身に加えざらしめず。
能(よ)く一日とて其の力を仁に用うること有らんか。我未だ力足らざる者を見ず。蓋(けだ)し之有らん。我は未だ之を見ざるなり。(「里仁第四」6)
(意味)
「人間として生きる喜びを持つ者、非人間的であることを批判する者、そうした本物にであったことがない。
人間として生きる喜びを持つ者、これは最高であって非の打ちどころがない。一方、非人間性を批判する者は、人間らしくありたいと努めている。それは、非人間性を自分の中に入れないようにさせているわけだ。
そのように、たとい一日でも人間らしくありたいと努めてみよ。それができない者などはいないのだ。いや、あるかもしれないが、私としてはこれまでそういう者に出会ったことはない。」(論語 加地伸行)
我未だ仁を好む者も不仁を悪む者をも見ず
論語を愛した渋沢栄一は、後に大企業に発展する事業を支援し続けた。一方、弥太郎は、「三菱はもはや昔の三菱ではないのだ。国民のための三菱なのである(岩崎弥太郎と岩崎四代 河合敦著)」と言い、三菱に一意専心、三菱を岩崎家の個人的な事業としながらも、常に国家を中心においていた。
まるで違う方向を見ているような二人であったが、一度だけ面と向かい合ったことがあるらしい。隅田川の屋形船で、弥太郎が栄一を三菱に誘ったが、断られたという。一説では、取っ組み合いのケンカになったともある。
論語を愛した栄一は仁を好み、弥太郎は不仁を許せなかったのではなかろうか。
海運では会社の存亡をかけ競争した二人であった。そうした二人の切磋琢磨が今日の日本経済の土台になった。この二人の存在なくして、今の日本郵船はない。
「参考文献」