「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

真の剛者は家康か【未だ剛者を見ず】 Vol.105

 

子曰わく、吾 未だ剛者を見ず。或る人対え曰わく、申棖(しんとう)と。子曰わく、棖や慾あり。焉んぞ剛たるを得ん、と。(「公冶長第五」11)

  

(解説)

孔子が「まだ強い人間を見たことがない」とおしゃっられたので、誰かが「申棖がいます」とお答え申し上げた。すると孔子はこう引き取られた。「棖は欲が深い。どうして強い人間でありえようか」と。」論語 加地伸行

 

 桑原は、「申棖の事跡は不明。いかに強健な身体をもち、また果烈な精神態度をもっていても、欲望に負けてしまうようでは、果烈でありえなくなる。この「慾」は古注に従って情欲とよんでおきたい。情欲の温柔郷のイメージにまつわられるとき、果烈の士も志を失いやすいのである。もちろん孔子は人間の欲望の存在を否定などしてはいない。ただ、慾という言葉は、その欲望にふりまわされている、またはふりまわされやすい、という形容詞であろう。それは剛とは両立しないのである」と解説する。

 

 あの徳川家康には、多くの側室がいて11男、5女の子宝に恵まれたという。歴史家の加来耕三氏は、家康をこう見る。

秀吉は手当たり次第でしたが、家康は違います。朝鮮出兵で有名な加藤清正は、梅毒で死んだという説があります。浅野幸長(あさの・よしなが)が梅毒で死んだことは徳川家の「当代記」に記されており、加藤清正についても「好色の故、虚の病」といったふうに指摘されています。むやみやたらと手を出さなかったのは、リスク管理のためだったように思います。(出所:日経ビジネス

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 慾あり。焉んぞ剛たるを得ん

「剛」とは何か。荻生徂徠は柔の対立語を「果烈」とするという。孔子が「剛」といってよい人間に出会ったことがないというと、その話相手の誰かは、「剛」をもっぱら肉体的に解したようだ。

「いかに強健な身体をもち、また果烈な精神態度をもっていても、欲望に負けてしまうようでは、果烈でありえなくなる」

 江戸幕府260年の基礎を気づき、長命であった家康は、日本最高の剛者ということであろうか。 

覇王の家(上下) 合本版

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「関連文書」

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(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

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論語 (ちくま文庫)

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【其の言を聴きても、其の行ないを観る】 Vol.104

 

宰予 寝に畫(えが)けり。子曰わく、朽木(きゅうぼく)には雕(え)る可(べ)からずれる。糞土の牆(しょう)には、杇(こてぬ)る可からず。予に於いてや、何ぞ誅(せ)めん、と。

子曰わく、始め吾 人に於けるや、其の言を聴きて、其の行ないを信ぜり。今 吾 人に於けるや、其の言を聴きても、其の行ないを観る。予に於いてや、是を改めり、と。(「公冶長第五」10)

  

(解説)

「宰予は、自室で、ある絵を画いていた。孔子はこうおしゃった。「腐った木には彫ることはできない。ぼろぼろになった土塀は塗って修復することができない。宰予に対して責めてもしかたがない」と。

孔子はこうおっしゃっておられた。「以前は、他者を見るとき、その言葉がりっぱだと思えば、その人の行動を信じたものであった。しかし、今はその人の言葉を聴いても、その行動を観ることにしている、宰予のあの一件があって、そう改めたのだ」と。」論語 加地伸行

 

 

 「宰我」、姓は宰、名は予、字名が子我。孔子の弟子で、礼の専門家といわれる。能弁家だったともいわれる。 

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  その宰予が、「陽貨第十七」18で、孔子に親が死んで3年も喪に服するのは長すぎると合理主義的に切り込んで、ひどくやっつけられるという。孔子と宰予はもともと肌が合わなかったのかもしれないと桑原はいう。

 宰予が孔子一門と対立する墨子一派の実用主義の先駆者とみなし、その思想的違和感によってではないかと説明する貝塚氏の読みから、そうみたようだ。

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 この章には、いくつかの読みがあるという。加地は「畫」と読み、もう一方では、これを「昼」と読み説があるという。こちらの説では、孔子が宰予の昼寝を責めている。

 「昼寝」とは昼に寝室にいることだが、明るいうちから女性と戯れていたのだと解するのは徂徠で、そうでなければ、孔子が怒るはずがないという。

 最高のモラリスト人間観察者であった孔子が、弟子の「昼寝」くらいで、人間への対処の仕方を以後改めるなどというのは、唐突過ぎて不自然で、後半の文章は別に何か重大な思いがけぬ人間行動に直面させられることがあっての別の日の発言ととれば、よくわかると桑原はいう。前半は徂徠ほど厳しく女性のことなど読み込まず、宰予がまた怠けて明るいうちから寝室にいる、処置無しだと、嘆いたのだと軽くよみたいという。  

 

(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

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論語 (ちくま文庫)

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  • 作者:桑原 武夫
  • 発売日: 1985/12/01
  • メディア: 文庫
 

 

【一を聞いて以て十を知る】 Vol.103

 

子 子貢に謂いて曰わく、女(なんじ)と回孰れか愈(まさ)れる、と。対(こた)えて曰わく、賜(し)や何ぞ敢えて回を望まん。回や、一を聞いて以て十を知る。賜や、一を聞いて二を知るのみ、と。

子曰わく、如かざるなり。吾と女と如かざるなり、と。(「公冶長第五」9)

  

(解説)

孔子が子貢に向かってこうおっしゃった。「君は回君と比べてどうかね」と。子貢は申し上げた。「私ごときが、どうして回君と比べてることなど望みましょうか。回君は一を聞けば十が分かります。私などは一を聞いて二を知るくらいのものです」と。孔子はつぶやかれた。

「及ばぬな。私も君もかなわない」と。」論語 加地伸行

 

 

 

 孔子にとって、「学」とは知識の蓄積の意ではなく、道徳の実践のこと。

 魯の君主哀公に、弟子のうちで誰が学問好きかと問われた孔子は、顔回の名を挙げ、「彼は学問好きで、怒りにかられることなく、過ちを繰り返すことはなかった」と答えた。 

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 「好学の士」を以て、「一を聞いて十を知る」という境地に至れるということであろうか。

 「回」は、顔回(顔淵)のこと。姓は顔、名が回、字名が子淵。魯の国のひと。孔門十哲の一人、孔子最愛の弟子とされる。好学の士。

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 孔子より30歳年少で、孔子61歳のとき、32歳で亡くなったという。これが通説だが、孔子71歳のとき、41歳で死んだという説もあるという。加地は29歳で亡くなった説を採用し、すべて白髪だったという。 

 

  

 「賜」と「回」の対比が面白い。 

 

 「子貢」、姓は端木、名は賜、字名が子貢。孔門十哲の一人と言われる。孔子の死後、衛の宰相となったといわれる。 「言語には宰我、子貢」(「先進第十一」3)といわれるように、弁舌にすぐれた秀才といわれる。

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そればかりでなく、利殖の道にもたけ、孔門第一の金持になったという(「先進第十一」18)。 

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論語 増補版 (講談社学術文庫)

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【其の仁を知らざるなり】 Vol.102

 

孟武伯問う、子路仁なるか、と。子曰わく、知らざるなり、と。又問う。子曰わく、由や、千乗の国、其の賦(ふ)を治め使(し)む可(べ)し。其の仁を知らざるなり、と。

求や如何、と。子曰わく、求や、千室の邑(ゆう)、百乗の家、これが宰為(さいた)ら使む可し。其の仁を知らざるなり、と。

赤(せき)や如何、と。子曰わく、赤や、束帯して朝に立ち、賓客と言わ使む可し。其の仁を知らざるなり、と。(「公冶長第五」8)

  

(解説)

「孟武伯が質問したことがあった。「子路は人格者でありましょうか」と。孔子は「完全というわけではありませぬ」とお答えになられたところ、後日、同じ質問がなされた。孔子はお答えになられた。「由は、諸侯の国において国政の長官となる能力がありますが、人格者として完全というわけではありませぬ」と。「冉求はいかが」と。孔子のお答え。「求は、卿(けい)・大夫(たいふ)など重臣の家の執事長となる能力はありますが、人格者として完全というわけではありませね」。「公西赤(こうせいせき)はいかが」。「赤は、正装の礼服を着用して朝廷に立ち、外国の賓客と応接できる能力はありますが、人格者として完全というわけではありませぬ」。」論語 加地伸行

 

 「冉求」、孔子より29歳年少の弟子。字名は子有。「冉有」とも呼ばれる。政治的手腕があり、季子の宰となった。

子路」、本名は仲由、子路は字名。顔回(顔淵)とともに「論語」の二大脇役。大国の軍政のきりもりを任せられる人材と桑原はいう。子路は晩年、衛の国に仕えるが、内乱に巻き込まれ殺される。

「公西赤」、名が「赤(せき)」。字名が「子華」。「公西華」ともいわれる。孔子の42歳年少の弟子。衣冠束帯の礼装をして朝廷で賓客と応対することが立派にできるという、外交官向きの人材と言われる。また、親に対し、友だちのように接していたといわれる。

 

「孟武伯」、魯の三家の一つ孟孫子の当主。

 「為政第二」6では、孔子に「孝」について質問をしている。 

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 なぜ、この若い貴族「孟武伯」が今度は「子路は仁者ですか」と質問したのだろうかと、桑原は疑問を呈する。

 

 

孔子は対話者の真意をいつも的確につかむ人だから、このときも三人の弟子の実用的な才能をみとめ、それは大切なことだと、それぞれを評価した上で、だが「仁」ということになると、さあそれはどういっていいかな、というふうに、いわば相手をいなしているのでなかろうか」と桑原はいう。

自分で「仁」にはげもうというような意志をほとんど持たないでいて、このような大問題を軽々しく自分の弟子にひっかけて聞いてくるような儒子(若僧)には、正面から答えたくなかったのかもしれない。孔子が、この三人は「仁」についてはまだ未熟者なのです、と答えたのではあるまい」と桑原は解説する。

  

  子路冉有、公西華、この3名はよくセットになって登場する。さて、その真意はどこにあるのであろうか。

 

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論語 (ちくま文庫)

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アウェイで自分を知る【桴に乗りて海に浮かばん】 Vol.101

 

子曰わく、道行なわれず。桴(ふ)に乗りて海に浮かばん。我に従う者は、其れ由(ゆう)なるか、と。子路之を聞きて喜ぶ。

子曰わく、由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無し、と。(「公冶長第五」7)

  

(解説)

孔子がこういったことがあった。「乱世じゃ。桴(いかだ)に乗って東海にでも行くか。付いてくるのは、ま、由ぐらいか」と。子路はこの話を伝え聞き、嬉しがった。

孔子は「由の大胆さは私以上だが、材質はないな」とおっしゃった。」論語 加地伸行

 

 「孔子は本気で中国脱出を考えていたのだろうか、疑わしい。しかし、孔子にも、中国の現状がどうにもやりきれない、と痛感する瞬間はあっただろう。そして、それが本来多感で勇を好む気質と結びついて、短時間ながら冒険への空想をかなりの強度をもって抱き、また内向的な人ではないので、それを親しい側近者に洩らすことがあってとしても自然である」と桑原は解説する。

 孔子はこの国では理想は実現されない、いっそ桴に乗って東海にわたりたい、そうなったら連れていくのは、勇敢で政治的手腕もある、由(子路)だな。

子路之聞きて喜ぶ」

 一本気な子路が自分への師の信頼にほくほくとして姿を現す。その子路を前にして、「由よ、わしも冒険は好きさ、だがお前はわしを上回っているよ。だが、いったい桴を作る材木はどうするのかね」とユーモアをこめて言ったという。

 孔子はかりそめにも桴に乗ろうなどと、あまりにも「暴虎馮河」的なことを言ったのを恥かしく思う気持ちになったのかもしれないと桑原はみる。

 

 

「無所取材」には異説があるという。取りどころのない男とまで言わないが、勇気のほどは十分に認めるけど、まだ仁者としては至らぬところがある、として子路に軽く訓戒を与えたということになるが、「材」は材木と見たほうが面白い。孔子だからといって、いつも教訓ばかりして訳ではなかろうと桑原はいう。

 たしかに、「無所取材」次第でいかようにも意味は変化しそうである。子路が、衛の国に仕えた後に殺される史実から考えれば、「冒険航海に堪える桴の辛抱強さのような材質は子路にはないな」とする加地の解説に合理性があるように思う。 

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 現状に少し疲れ、桴に乗ってぼーっと海でも浮かんでいるかとすれば、桑原のようにこの文章をユーモアとみることもできるのではなろうか。 

 いつの時代でも、なかなか自分が理想とするものは手に入らぬということなのだろう。その時、先人たちも今いる環境からの脱出したいと夢想したのだろうか。

 

 

 先人たちの時代とは違っていとも容易く移動ができる時代なのだから、何か閉塞感なり感じるのであれば、一層のこと脱出してしまうこともよいのではなかろうか。世界に見るべきもたくさんあるのだから。

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「自分のこと、日本のことを知るために「アウェイ」を増やそう」なんて、Forbesも勧める。 

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  ふと思えば、ここしばらくアウェイに出向いていない。刺激を求めてどこに出かけたいとなんて思う。

 

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 この記事を読んだら、キューバに行きたくなった。

 不便さを感じることで、便利さを見つめ直してみたい気持ちになった。

 桴の上もそういう世界かもしれないし、ただ流れに身を任せているのもいいのかもしれない。

   

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論語 増補版 (講談社学術文庫)

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論語 (ちくま文庫)

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【斯を之れ未だ信ずる能わず】 Vol.100

 

子 漆彫開(しつちょうかい)をして仕(つか)えしむ。対(こた)えて曰わく、吾 斯(これ)を之れ未だ信ずる能(あた)わず、と。子 説(よろこ)ぶ。(「公冶長第五」6)

  

(解説)

孔子が漆彫開をある求人に推薦なされた。ところが、漆彫開はこう申し上げた。「私めは、その任に堪えられますかどうか、まだ自信がありませぬ」と。孔子はお喜びになられた。」論語 加地伸行

 

 桑原は、もう少し深く解説する。「斯を官僚のあり方そのものととり、主体の問題よりも客体の存在そのものに疑問を感じ、そこにコミットする気持ちになれない、と弟子がいい、役人社会の表裏をよく知っていた先生が、お前の気持ちはよくわかる、そのとおりだよ、とうれしげに答えた、とするのはあまり新しい解釈すぎるだろうか。」

 

 「漆彫開」、孔子より12歳年少の弟子で、魯の人といわれる。孔子が漆彫開に仕官を進めたときの問答。

 「斯」が何を指すかで諸説あるという。桑原は古注の「仕官」と読んで解説している。

 桑原の解説はわかりやすい。孔子が現代の理想の上司像に思える。

 

(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

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論語 (ちくま文庫)

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エッジを少し緩めてみると...【何の器ぞや、と。曰わく、瑚璉なり】 Vol.99

 

 子貢問いて曰わく、賜(し)や何如、と。

子曰わく、女(なんじ)は器なり。曰わく、何の器ぞや、と。

曰わく、瑚璉(これん)なり、と(「公冶長第五」4)

  

(解説)

「子貢が孔子にたずねたことがあった。「私は何なのでしょうか」と。孔子はお答えになった。「お前には、器才がある」。「どういう器才ですか」。「最高ということだ」。」論語 加地伸行

 

「子貢」、姓は端木、名は賜、字は子貢。孔門十哲の一人と言われる。

孔子に、「私は如何でしょうか」「私をどのように評価されますか」と子貢が聞いたというのである。この章を前章と結びつけ、孔子が子賤を褒めたので、自信家の子貢が、それなら私は、と口を出したのだ、とする説が多いという。

 

 

 

 孔子は、まずは「器」だ、答える。これを「為政第二」12の「君子は器にあらず」と結びつける必要はなかろうと桑原は言う。しかし、「器」は道具であって、しかもその用途は色々ある。子貢は不安になって、「どんな器ですか」と聞き返すと、「瑚璉」だと答える。

「瑚璉」とは、宋廟のお祭に黍や高粱の飯を盛る器である。そうした非日常的な貴重な器にたとえることによって、孔子は何をいおうとしていたのか、桑原は的確にとらえかねるという。訳者によって見解の相違があるからかもしれない。

 桑原によれば、朱子は、やはり「君子は器ならず」が頭にあるので、器の中で最も華美なものではあるが、まだ真の君子の境地には達していないとみているという。

 仁斎は、自分から自分の評価を先生に質問するといった子貢の出過ぎた態度に反感をもったのか、かなり手厳しい。道具といっても農具などは不可欠なものであるのに、世人はこれを貴重視しない。聖人の徳なども同じことで、かえって貴重視されることがない。子貢は要するに賢者に過ぎないので、華やかだがまだ「仁」の境地には達していないと注意されたのだとよむという。

「言語には子貢」と評されただけあって、この秀才はおそらくスマートでやや実直さに欠けるところがあったのかもしれないと桑原は言う。しかし、「賜や達なり」(雍也第六」8)といって、孔子は子貢の見通しのよさを評価している。ここではもう少し鋭鋒をかくしたほうがよいという忠告を含んでの比喩と見ておきたい」と解説する。

 

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 加地の訳とは正反対にとれる。その加地はこう解説する。

「瑚璉」は、宋廟で用いる黍稷(穀物)を盛る器で、黄金や玉で飾られ、各種の器の中で「貴重華美なる者」とされる。つまり、魯国の君主の宗廟における「瑚璉」であるから、君主を輔佐する直近の地位を意味する。しかし、そういうことはあからさまに言えないので比喩的に道具の話をしたのだろうという。政治における最高の器量人という比喩だともいう。

 

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 現代においては、エッジを利かせることがもてはやされる。しかし、一方でエッジが利き過ぎたものが大成するとは限らない。桑原の言う通り、少しだけエッジに丸みを与えたほうがよいのかもしれない。そうすることで、多くの人に受け入れやすくなるのかもししれない。それは、今も昔も変わらないということなのかもしれない。

 

 若いときの北島康介もそうだったのかもしれない。若気の至りといえるが、少し生意気に映ったりする。それより歳重ね丸みを帯びた康介さんは素敵だし、多くの仲間が集まる。北京五輪のときの「康介さんを手ぶらで帰すわけにはいかない」と語った松田丈志さんのことを思い出す。

  

(参考文献)  

www.nikkei.com

論語 増補版 (講談社学術文庫)

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