「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

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親孝行について② 毒親 【父母には唯其の疾をこれ憂えよ】 Vol.27

 最近、ネット上で毒親との言葉をよく見かけるようになった。

親孝行について悩むことはありませんか。

私も父を亡くしてからはじめて、そのことを真剣に考えるようになりました。

論語のこの言葉がなにかのヒントなるかもしれない。 

  

 孟武伯孝を問う。子曰わく、父母には唯其の疾(やまい)をこれ憂えよ。(「為政第二」6)

  

(意味)

「孟武が孝の意味を質問したところ、孔子はこうお答えになられた。「父母に対して、病気ではあるまいかただただ心配することだ。」論語 加地伸行

 

 この章は、孟武伯の「孝」の問いに孔子が答え「孝」についてを説く。

孔子は超越的な孝の原理を上から押しつけるのではなく、人を見て法を説こうとしている」と桑原はいい、「したがってこうした言葉を吐いたときの孔子の真情は、相手がいかなるパーソナリティで、またいかなる状況においてあったかを知らなければ十全にとらえられないであろう」という。

 

 その「孟武伯」、孟懿子の子で、仲孫彘。武は諡(おくりな)。長男だったので「伯」がついているという。魯の三家の一つ孟孫子の当主。その孟孫子は魯の国の政治を牛耳っていたともいわれている。

 「孟武伯」のことを詳しく知らないので、逆に、孔子の言葉から彼のパーソナリティを類推しかない。

 

 桑原は「孝」について、こう解説にする。  

 「孝」とは自分をこの世に生んでくれたという生物的自然的関係のみを重視して、父母を敬うことを意味するという。敬することが必要だし、それも理念的にではなく、いそいそと、容色にあらわれるまでの楽しさをもって、つかえるのでなければならないのだが、そのさい父母の人柄いかんは問題にならないのである。父母がいかに無学であろうと不品行であろうと、孝の程度に差異があってはならない。つまり父母はその内包する諸価値によるのではなく、まず一個の生物学的な存在として大切にしなかればならないのである。してみれば最大の悪はその存在の消滅でなければならない。父母の疾いこそ子としてつねに憂えなければならないところである

 二十四孝の話はやや行き過ぎの滑稽感が伴うけれども、孔子の実感していた孝はどこか愚直をも容認した農民風の素朴さをもつものではなかったかという気がする。それをもって権力者に答えているのもよい。孝道のすなおな起源がここにあると、桑原は解説する (論語 桑原武夫)。

 

 この章は、「其」の取り方で、3つの解があるという。

 桑原は、伊藤仁斎の「父母については、唯其の(父母の)疾いを之れ憂いよ」に従ったという。その理由は「里仁第四」21の「父母の年は知らざる可からざるなり。一つは則ち以て喜び、一つは則ち以て懼(おそ)る」を踏まえたという。

 

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【父母がいかに無学であろうと不品行であろうと、孝の程度に差異があってはならない】

 

 こんなところまで、正直考えたことはなく、驚きをもって読んだ。

これが素直な「孝」ということなのであろう。

  

(参考文献) 

論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)

 
論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)