宰予 寝に畫(えが)けり。子曰わく、朽木(きゅうぼく)には雕(え)る可(べ)からずれる。糞土の牆(しょう)には、杇(こてぬ)る可からず。予に於いてや、何ぞ誅(せ)めん、と。
子曰わく、始め吾 人に於けるや、其の言を聴きて、其の行ないを信ぜり。今 吾 人に於けるや、其の言を聴きても、其の行ないを観る。予に於いてや、是を改めり、と。(「公冶長第五」10)
(解説)
「宰予は、自室で、ある絵を画いていた。孔子はこうおしゃった。「腐った木には彫ることはできない。ぼろぼろになった土塀は塗って修復することができない。宰予に対して責めてもしかたがない」と。
孔子はこうおっしゃっておられた。「以前は、他者を見るとき、その言葉がりっぱだと思えば、その人の行動を信じたものであった。しかし、今はその人の言葉を聴いても、その行動を観ることにしている、宰予のあの一件があって、そう改めたのだ」と。」(論語 加地伸行)
「宰我」、姓は宰、名は予、字名が子我。孔子の弟子で、礼の専門家といわれる。能弁家だったともいわれる。
その宰予が、「陽貨第十七」18で、孔子に親が死んで3年も喪に服するのは長すぎると合理主義的に切り込んで、ひどくやっつけられるという。孔子と宰予はもともと肌が合わなかったのかもしれないと桑原はいう。
宰予が孔子一門と対立する墨子一派の実用主義の先駆者とみなし、その思想的違和感によってではないかと説明する貝塚氏の読みから、そうみたようだ。
この章には、いくつかの読みがあるという。加地は「畫」と読み、もう一方では、これを「昼」と読み説があるという。こちらの説では、孔子が宰予の昼寝を責めている。
「昼寝」とは昼に寝室にいることだが、明るいうちから女性と戯れていたのだと解するのは徂徠で、そうでなければ、孔子が怒るはずがないという。
最高のモラリスト人間観察者であった孔子が、弟子の「昼寝」くらいで、人間への対処の仕方を以後改めるなどというのは、唐突過ぎて不自然で、後半の文章は別に何か重大な思いがけぬ人間行動に直面させられることがあっての別の日の発言ととれば、よくわかると桑原はいう。前半は徂徠ほど厳しく女性のことなど読み込まず、宰予がまた怠けて明るいうちから寝室にいる、処置無しだと、嘆いたのだと軽くよみたいという。
(参考文献)