宰我(さいが)問う。三年の喪、期すら已(すで)に久し。君子 三年礼(れい)を為さざれば、礼必ず壊(やぶ)れん。三年楽(がく)を為さざれば、楽必ず崩れん。旧穀(きゅうこく)既に没し、新穀(しんこく)既に升(のぼ)る。燧(すい)を鑽(き)り火を改む。期にして已(や)む可し、と。
子日わく、夫(か)の稲を食(くら)い、夫の錦を衣る。女(なんじ)に於いて安きか、と。日く、安し、と。女 安くんば則ち之を為せ。夫の君子の喪に居(お)るや、旨きを食えども甘しとせず、楽を聞きても楽しからず、居処(きょしょ)安からず。故に為さざるなり。今 女安くんば、則ち之を為せ。宰我出(い)づ。
子日わく、予の不仁なるや、子 生まれて三年、然る後に父母の懐(ふところ)を免(まぬか)る。夫れ三年の喪は、天下の通喪(つうそう)なり。予や其の父母に三年の愛有りしか、と。(「陽貨第十七」18)
(解説)
宰我が質問した。「三年の服葬は、1年でも長すぎると思います。三年も一般礼法に従わないで過ごすと、身につけた礼法は乱れます。三年も音楽を離れると、身につけた音楽も調子外れになります。穀物とて1年経つとなくなり、新穀が実ります。木を磨(す)ってとる火も1年で一巡します。1年で終えるべきではないか」と。
孔子は反問した。「美味しい米を食べ、きれいな着物を着る生活をして、お前は平気なのか」と。宰我は「平気です」と答えた。孔子は言った。「お前は、平気というのなら、そうすればいい。君子 教養人たる者、服喪期間においては、美味のものであっても美味しいと感じない。音楽を聞いても楽しくない。不自由なく住まい居ること自体がつらい。だから、そうしないのだ。今お前は平気というなら、そうせよ」と。宰我が退出した。
孔子はこう述べた。「(宰)予は人の道を外れている。子が生まれて三年経ってそれから父母の懐に抱かれる生活から離れる。三年の喪は、天子以下すべての人々に共通する葬礼である。(宰)予には、その父母に三年の愛育された期間があったのであろうか」と。(論語 加地伸行)
「宰我」、姓は宰、名は予、字名が子我。孔子の弟子で、礼の専門家といわれる。能弁家だったともいわれる。
合理主義的に考える宰予と孔子はもともと肌が合わなかったのかもしれないと桑原はいう。宰予が孔子一門と対立する墨子一派の実用主義の先駆者とみなし、その思想的違和感によってではないかとみる。
「墨子」、論語(儒家)に対抗する主張が多いと言われる。また、実用主義的であり、秩序の安定や労働・節約を通じて人民の救済と国家経済の強化をめざす方向が強いという(参考:Wikipedia)。
「墨子薄葬」という言葉もある。
節葬:葬礼を簡素にし、祭礼にかかる浪費を防ぐこと。儒家のような祭礼重視の考えとは対立する。
非楽:人々を悦楽にふけらせ、労働から遠ざける舞楽は否定すべきであること。楽を重視する儒家とは対立する。但し、感情の発露としての音楽自体は肯定も否定もしない。 (出所:Wikipedia)
一方、論語の「三年の服喪」は、「学而第一」11に登場する。
「父在(いま)せばその志を観(み)、父没すればその行いを観よ。三年父の道を改むる無きを、孝と謂(い)う可し」。
「子 生まれて三年、然る後に父母の懐(ふところ)を免(まぬか)る」
この2つの章から「親孝行のカタチ」が見えてくるのかもしれない。
今年、父の三回忌の法要を行った。コロナ下ということもあって、質素に家族だけで行うことにした。
孔子の言葉があったから、父の生き様を振り返ってみようとの気持ちになれたし、それが「孝」であり、父への恩返しになるとも思えるようになった。法要は礼の形であり、けじめをつけるときということであるのであろう。
三回忌は3年目の年に行うので、丸々2年間が服喪の期間となる。
他方、「墨子」、Wikipediaによれば、当初は「論語(儒学)」を学ぶも、儒学の仁の思想を差別的な愛であるとして満足しなかったという。そこで、無差別的な愛を説く独自の思想を切り拓き、一つの学派を築くまでに至ったが、その平和主義的な思想は、軍拡に躍起になっていた当時の諸侯とは相容れず、敬遠されがちだったという。墨子は、一種の平和主義・博愛主義を説く。
墨家は戦国末まで、儒家と思想界を二分するほどの勢力をほこったが、秦・漢の統一時代に入るや、急速に衰退してしまう。
墨子の学説を集めた書「墨子」もまったく忘れ去られ、清朝の末にいたるまで2000年間、絶学の悲運にあった。彼の思想は支配者、すなわち士大夫階級に歓迎されないような要素をもち、ために中国社会には根を下ろしえなかったのである。 (出所:excite辞書)
清王朝が欧米列国に侵されたのは、もしかして「墨子」の影響があったのだろうか。
その墨子は、「兼愛」を主張し、「兼ねて愛する(区別せずに愛する・すべて愛する)、万人を公平に差別無く愛せよ」と教え、「儒家の愛は家族や長たる者に対してのみの偏愛である」として排撃したという(参考:Wikipedia)。
今の中国に墨子思想が残っていれば、「人権問題」が生じないのかもしれない、そう感じる。逆に、長たる者への偏愛を上手く利用しているのかもしれない。
「墨守」という言葉がある。墨子がよく城を守って、楚の軍をしりぞけたという故事から生まれた言葉で、頑固に守り通すこと。または、自説をかたく守って変えないことを意味する。この言葉も当てはまるのかもしれない。
「関連文書」
(参考文献)