子曰わく、剛毅木訥(ごうきぼくとつ)は仁に近し。(「子路第十三」27)
(解説)
孔子の教え。物欲に左右されないこと(剛)、志がくじけないで勇敢であること(毅)、質朴で飾り気のないこと(木)、口下手であること(訥)、それぞれ人の道に近い。(論語 加地伸行)
孔子の剛毅朴訥のイメージには、寡黙な愛弟子顔回のことがあったのだろうか。
「剛毅」「朴訥」の反対語が、「巧言」「令色」と言われる。
巧言令色鮮なし仁 (「学而第一」3)
この章で、文学者で桑原は、「文学を学ぶとは内容を伝達するだけでなく、言葉を巧みにすることである」といい、「秀れた言葉がまずい結果を生むことがあるのである」と解説した。
真実は堂々と公言すべきである。しかし、正しいことならどんなに不味い表現で仏頂面をしてわめいてもよい、ということには決してならない。文明社会とは、内容の真実を美しい形式と調和させる努力ということではなかろうか。素朴実在論を基調とする日本社会は、「巧言令色」を排撃するのあまり、個物における美的洗練は実現しえたけれども、社会的人間関係における洗練と調和を十分に育てえなかったのではなかろうか。 (参考:論語 桑原武夫)
孔子は社会生活全般において粗野を奨励したのではなく、それが一般原理として受け取られてしまい、甚だ悪い影響を残していると桑原は指摘する。
巧言令色、足恭(そくきょう)なるは、左丘明(さきゅうめい)之を恥ずと、「公冶長第五」25にはある。
「足恭」、媚び諂うこと。
巧言令色を「足恭」の道具に使うことは恥ずべきことということなのかもしれない。
君子は言に訥(とつ)にして、行ないに敏ならんことを欲す。(「里仁第四」24)
巧言令色ができず、たとえ無調法なしゃべり口でも、行動が敏捷であれば、それはそれで君子といえるということであろうか。
コミュニケーションの基本は、表現豊かな言葉、そして、表情であるということに間違いはないだろう。巧言令色足恭はまずいにしても、あまり無骨すぎるのもいかがかなと思う。
剛毅木訥は仁に近し
「剛毅木訥」そのものが「仁」ということではなく、「仁」に近いということであろうか。
「公冶長第五」11で孔子は、「吾 未だ剛者を見ず」という。これに対し或る人が、「申棖(しんとう)」というものがあると答える。孔子は、「棖や慾あり。焉んぞ剛たるを得ん」という。
徳川家康はもしかしたら、「剛毅木訥は仁に近し」を体現した人なのかもしれない。
「関連文書」
(参考文献)