子游(しゆう)曰わく、喪には哀(あい)を致して止む。(「子張第十九」14)
(解説)
子游の言葉。「葬儀においては、哀しみをつくし、そこでやめる」。(「論語」加地伸行)
哀しみをつくす......
愛弟子顔淵が亡くなったとき、孔子は「慟哭」したという。「慟哭」も礼の形といわれるが、そこまでにとどめるということであろう。 哀しみがきわまり死に至るようなことがあってはならぬということであろう。
曾子が言った、「終わりを慎み遠きを追えば、民の徳 厚きに帰す」(「学而第一」9)と同じように形式主義に陥るなということなのだろう。
「子 喪有る者の側(かわら)に食するとき、未だ嘗(かつ)て飽(あ)かず。子 是(こ)の日に於いて哭すれば、則(すなわ)ち歌わず」(「述而第七」9)といい、孔子は憐みの感情を持つが、それを直接態で表出するのではなく、礼法にかなうようにして表現するのが、孔子の尊重した文化主義であろうと桑原はいう。
孔子の生きた時代は殺伐な乱世であって、礼法の定めはあったが、形骸化しあるいは無視されていたのであろう。それ故に礼の形式を説き、その背後にある「仁」を呼び起こそうとしたのだろう。
「礼は其の奢らんよりは、寧ろ倹せよ。喪(そう)は其の易(おさ)まらんよりは、寧ろ戚(いた)めよ」(「八佾第三」4)という。
葬儀も派手にするよりも質素にすることの方がよいと孔子はいい、哀しみで段取りがズレるくらいのほうがいいともいう。質素、倹約を勧めたのだろう。
それでも、弟子の中で実用主義であった宰予は礼式をもっと簡素にすべきと考えていたのかもしれない。
それ故に、孔子一門と対立する墨子一派の実用主義の先駆者とみなされていたのではと桑原はみる。
こうした言葉があっても、形式主義になってしまうことがあるから不思議ともいえる。
「子游」、姓は言、名は偃、字名が子游。孔子より四十五歳年少の弟子。孔門十哲の一人。学問に秀れ、文学には子游といわれる。礼の形式を重んずる客観派の一人ともされる。子夏学派が礼の形式に流れたのに対して、子游は「礼の精神」を強調する。
「関連文書」
(参考文献)