「孝」とは、難しいものかもしれない。論語にたくさん「孝」について記述がある。
とてもシンプルに書かれているが、シンプルが故にその実践がまた難しいのかもしれない。親孝行について。
孟懿子 孝を問う。子曰わく、違うこと無かれ、と。樊遅(はんち)御す。子之に告げて曰わく、孟孫 孝を我に問う。我対(こた)えて曰わく、違うこと無かれ、と。樊遅曰わく、何の謂いぞや、と。
子曰わく、生けるときは之に事うるに礼を以てし、死せるときは之を葬むるに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす、と。(「為政第二」5)
(意味)
「孟懿が孔子に孝の意味を問うたことがあった。そのお答えは「違わないようになされよ」であった。孔子の馬車は弟子の樊遅が御者をしていた。孔子は樊遅に、しかとお話なされた。「孟孫殿が私に孝についておたずねになられたので、申し上げた違うこと無かれ」と。樊遅が「どういう意味でしょうか」と質問すると、孔子はこう説明された。
「父母がお元気なときは、もちろん礼に従ってお仕えし、お亡くなりになれば、礼に従って葬り、また礼を守って、祖先となられた御霊をお祭りすることである」と。」(論語 加地伸行)
孔子の生国の魯では、君主の下、有力貴族が実権を握っていたのが三桓氏といわれる「孟孫氏」「叔孫氏」「季孫氏」。
「孟懿」、この頃の孟孫氏の当主孟何忌(もう か き)のことで、「懿」は没後に贈られた諡(おくりな)。
「樊遅」、姓は樊、名は須、字名は子遅。孔子の弟子。孔子より36歳年少。「季孫氏」に仕えたといわれる。同じく孔子の弟子の冉求の供として戦車に同乗し、勇敢に敵軍に攻め込む、勇士と称せられたという。しかし、「論語」ではいつも勘の悪い質問をして、孔子に「小人なるかな、樊須」(「子路第十三」4)と言われたりしていると桑原は指摘する。
【生けるときは之に事うるに礼を以てし、死せるときは之を葬むるに礼を以てし、之を祭るに礼を以てす】
長い人生である。常に100点満点を取る必要はないかと思う。何事にも感謝をもって接し、応ずることと思う。親子関係であると、甘えが出ることもあろう。適度な距離を保ちつつ、できる範囲で礼を尽くす。無理は絶対に禁物である。
(参考文献)