「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

歳を重ねて見えてくるもの【三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。】 Vol.25

 

 曰わく、吾 十有五にして学に志す。

三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。

六十にして耳順(したが)う。七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。 「為政第二」4

 

(意味)

「私は十五歳になったとき、学而に心が向かうようになった。三十歳に至って独りで立つことができた。やがて四十歳のとき、自信が揺るがず、もう惑うことがなくなった。五十歳を迎え立つとき、天が私に与えた使命を自覚し奮闘することになった。

(その後、苦難の道を歩んだ経験からか、)六十歳ともなると、他人のことばを聞くとその細かい気持ちまで分かるようになった。そして、七十のこの歳、自分のこころの求めるままに行動しても、規定・規範からはずれるというようなことがなくなった。」(論語 加地伸行

 

 

 論語の有名な一節であり、普遍性の高いことばである。

 日本資本主義の父と言われる渋沢栄一は、「論語」を愛読した。渋沢は、この章をどう読んだのだろうか。

 桑原武夫は、孔子とて、また人間、無意識的に彼の生理的諸段階を反映した読みもあるのではないかという。 

 

 

歴史社会に関連して読む 

 孔子は歴史上の人物であるから、歴史社会に連関させて読むことができると文学者の桑原武夫はいう。

  孔子の出身をどこに置くかによって、学に志すという意味も変わってくるだろうという。貝塚氏は孔子を貧しい武士の孤児とし、白川氏は女巫(じょふ)の私生子とする。不遇の少年は、正規の教育など受けられるはずはなく、十五になって始めて独学を決意したのであろう。無学だったルソーが二十歳を過ぎて学問に生命がけで取り組んだところに、彼の革命思想の原点があることが想起される。当時貴族は二十歳で成年式をあげるのだが、孔子がことさら三十といったのは、卑賤な職業を転々としつつ学んだあと、三十になって始めて博学者として世に認められたことをいう。「不惑」は四十を越した孔子が祖国を復興させるために決意して帰国したことを指し、五十歳で天命を知ったというのは、魯の政治を壟断(ろうだん)していた御三家を打倒しようとして果たさず、五十六歳以後放浪の旅に出る、この運命をさとったことである。「耳順」とは、亡命中の苦しい体験から異説をも素直に聞きうる心境に達したことを指すという。

 

 

 貴族の子供は八歳から少年教育を受けるという。「十有五」は、十と五つまり十五歳のこと。十五になって学問を始めたのではなく、自主的に高度の学問をしようと決意したことをさす。そして、三十になったときに、学問的に自立し、四十になると、自分の学問に自信ができ、自分の生き方についてもう迷うことはなくなった。五十になって、天が自分に与えた使命をさとり、六十になると、自分と異なる思想を聞いても、それが素直に耳に入り、いちいち反撥しなくなった。七十になってからは、自由の境地に到達したのか、意識的反省の結果ではなく、自分のしたいとおりのことをしていながら、しかも節度を失うようなことがなくなった。これが一般的に読まれるおおよその意味であろうと桑原はいう。歴史背景がわかると、なるほどと思う。

 

渋沢栄一 孔子の志の立て方から解説 

 渋沢が「論語と算盤」を書いてから100年の時間が経過する。それでも、彼の言葉は今でも通用する気がする。いや、今この時代にあっては、彼の言葉は求められているものなのかもしれない。

 目の前の社会風潮に流さたり、一時の周囲の事情に縛られたりして、自分の本領でもない方面へ、うかうかと乗り出してしまうものが多い。

これでは「志」を立てたとはいえない。(論語と算盤)

 渋沢は「」、今でいえばビジョンミッションパーパスを組み合わせたものであろうか、その重要性を説き、孔子の志の立て方として、この章を引用している。

 きちんとした考えを組み立てておかないまま、ちょっとした世間の景気に乗じて、うかうかと志を立てて、駆け出すような者も少なくない。これでは最後までやり遂げられるものではないと渋沢はいう。

 

「これなら、どこから見ても一生を貫いてやることができる」

 

 志には、大きな志と小さな志がある。大きな志とは、根幹にすえるもので、自分がもっとも得意とするところに向かって建てるべきだといい、それと同時に、自分がその志をやり遂げる境遇にいるのかを深く考慮する必要があるともいう。

 小さな志については、こういう。「どんな人でも、その時々にいろいろな物事に接して、何かの希望を抱くことがあるだろう。その希望をどうにかして実現したいという観念を抱くのも一種の志を立てることで、わたしの言う「小さな志を立てること」とは、つまりこのことなのだ。また、小さな志の方は、その性質からいって、つねに移り変わっていく。だから、この移り変わりによって、大きな志の方に動揺が与えないようにする準備が必要である。つまり、大きな志と小さな志で矛盾するようなことがあってはならないのだ。

 この両者は常に調和し、一致しなければならない。」

 

 

 渋沢は孔子の志の立て方として、この章を紹介する。

 孔子は15歳にして、「これから大いに学問しなければならないな」と考えたんだろうという。

三十にして立つ」は、社会で自立していけるだけの人物に成長し、「自分を磨き、よき家庭を築き、国を治め、天下を平和にする」という技量を身につけたと確信できる境地に至ったことを意味するという。

四十にして惑わず」は、世間を渡っていくにあたり、外からの刺激くらいでは、ひとたび立てた志が決して動じないという境地で、どこまでも自信ある行動をとれるようになったとことという。

 こうした内容からして、孔子は15歳から30歳の間で志を立てたのだろうと推測する。30歳になってやや決心のほどが見え、40歳になって初めて志を完全に立てられたという。

 志を立てることは、人生において大切な出発点であるから、誰しも簡単に見過ごすことはできないと、渋沢はその重要性を説く。そうであるなら、40歳までは学びのステージで、そうした経験を通してビジョンがより明確になると言っているように思える。そして、ビジョンが明確になる40歳から真の人生が始まるといっているようにも思える。

 孔子は「五十にして天命を知る」という。日々の積み重ね、経験で、自身の存在意義、パーパスが理解できるようなるということであろうか。パーパスが定まれば、必然、ミッションもより明確にアップデートされるだろう。

 

志を立てる要は、よく己を知り、身のほどを考え、それに応じてふさわしい方針を決定する以外にないのである。誰もがその塩梅を計って進むように心がけるならば、人生の行路において、問題の起こるはずは万に一つもないと信じている。」(「論語と算盤」渋沢栄一

 

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

現代語訳 論語と算盤 (ちくま新書)

 

 

天命とは

  「天命を知る」について、桑原は解説する。

 「子罕第九」5に、孔子が匡の国で襲われたときに、「天の未だ斯の文を喪(ほろ)ぼさざるや、匡人其れ予(わ)れを如何せん」といい、また、「述而第七」22に、「桓魋其れ予れを如何せん」といっているとおり、天が自分に崇高な使命を与えたことの自覚であり、また自信であるという。

天は私に徳を生みつけた。つまり、私が徳を備え道を説く素質を与えた

それは、天の私に与えた使命である

桓魋のような一軍人が、私に何を為し得ようというのか。使命観への確信の表明である。(「述而第七」22)

dsupplying.hatenadiary.jp

dsupplying.hatenadiary.jp

dsupplying.hatenadiary.jp

 

年齢的、生理的な諸段階を加味して読んでみる

 桑原自身は冒瀆的と見える解説もする。人間の成長には学問修養が大いに作用するが、同時に人間が生物であることもまた無視できないであろうという。

 

 「天命を知る」というのは、自分がこの世で完遂すべき使命を自覚することであると同時に、五十の衰えの感覚から自分としてはこうしかならないのだということを認め、その運命の甘受の中で生きようと思うことでもある。自信であると同時に諦念である。

 「耳順は、自覚的努力というより、生理の作用する寛容、あるいは原理的束縛からの離脱であることが少なくないのではないか。よく言えば素直さだが、あくまで突進しようとするひたむきな精神の喪失ともいえる。

 「心の欲する所に従いて矩を踰えず」というのは、自由自在の至上境といえるが、同時に節度を失うような思想ないし行動が生理的にもうできなくなったということにもなろう。それは必ずしも羨ましい境地とは言えないのでないか。これ以上飲むと明日頭が痛かろう、と思って、意志的に盃をおくのが立派なのであって、飲んでいるうちにいつのまにか盃が手を離れるというのでは、いささか淋しかろう。そう思うのは、いつまでも悟れない人間の愚かしい感想だろうかと桑原はいう。

 しかし孔子もまた人間であって、彼の発言が無意識的に彼の生理的諸段階を反映しているかもしれないのであるという。

 

 

まとめ

 規範的に読むのか、それとも、桑原が指摘した人間孔子を通してみた生理的な諸段階を加味するのかは個人に任される。

  歳を重ねるごとに人間とはこのような過程を経るものかとみるのも、また良いのではなかろうか。

 

三十而立。四十而不惑。五十而知天命。

三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。

 

 何かに悩み、この言葉を目にしたなら、その答えを論語の中にきっと見つけることができるはずである。

 

(参考文献) 

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

 
論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)

 

 f:id:dsupplying:20190902051503j:plain