「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

捕縛された男に、娘を嫁がせた聖人孔子の心境はどうだったのだろうか ~ 論語の教え #7

 

「無理を言い張る人がいるものだ」と、渋沢栄一はいいます。昔の一ト口ばなしを例ににしています。

ある男が銭湯に出かけ、湯に入らぬうちから熱いものとばかり思い込み、三助を呼んでウメてくれろと頼むと、三助は湯槽に手を突つ込んで見て、熱いどころか微温くなってるのを知ったので、「微温いからウメるには及びません」というと、その男は「微温い?微温くてもかまわないからウメろ」威猛高になって命じたというふ譚がある。(参考:「実験論語処世談」渋沢栄一記念財団

「如何にも妙なところで意地を張って我意を貫徹しようとしたものだと思うが、こんな傾向の人は決して世間に少く無いのである」。 

  最近の世間でも、この男と三助の掛け合いみたいなことが、多く見受けられようになっているのではないでしょうか。

「世の中は十人十色で、孔子の如く自分の非を知れば、毫もこれを弁護する事無く、直に改むる人ばかりでは無い」といい、「理が非でも無理矢理に自分の言い分を貫徹しようとする者もある。こういう人は如何に才智が勝っていても、また、その人に非凡の技能があつても、世間の反感を買い、かえって自分の志を行い得られ無くなる」と栄一はいいます。

 お互い自分の立場を主張して少しも譲歩せず、主張し合って埒が明かないさまを押し問答といいます。

 こうしたことがよく見かけられるようになっていないでしょうか。

 

 

論語」の弱点に恋愛の記述が少ないことがあります。世間を騒がす問題も、さすがに「論語」でも難しいのかもしれません。少し見方を変えてみるしかなさそうです。

論語の教え

「子 公冶長(こうやよう)を謂う。妻(めあ)わす可(べ)きなり。縲絏(るいせつ)の中に在りと雖(いえど)も、其の罪に非(あら)ざるなり、と。其の子を以て之に妻わす」と、「公冶長第五」1 にあります。

 孔子が自分の娘を嫁がせた公冶長について、「彼がかつて牢屋に捕らわれていたことがあっても、それは冤罪であった」といって、娘を嫁がせたそうです。

dsupplying.hatenadiary.jp

「普通にみれば前科者である公冶長に、自分の娘をやろうというのは、ずいぶん突飛で、激しい行動とせねばならない」と桑原武夫はいいます。

 この風変わりな行動に、孔子一門をひどく驚かせたに違いない、「だからこそこの篇の最初にこの章をおき、その名を篇の名としたに違いない」といい、意味深く受け取れると桑原武夫は解説しています。 

 このとき、弟子たちはどんな行動をしたのでしょうか。もしかしたら批判もあったのかもしれません。それでも、結局、孔子は娘を嫁がせたのでしょう。

 

 

  この公冶長は「論語」の中でこの章にしか登場しません。普通に考えれば、桑原が指摘する通り、門下生の中で優秀ではないし、著名でもないのでしょう。しかし、孔子は、冤罪であろうが前科者であろうが、その男に娘を嫁がせてもよいとしたのは、もしかしたら、そこに娘の意志があったりしたのでしょうか。

 この公冶長篇の次の章には、孔子の兄の娘を南容に嫁がせた話が出てきます。

子、南容を謂う。邦に道有るとき、廃せられず。邦に道無きときも、刑戮(けいりく)に免(まぬか)る、と。其の兄の子を以て、之に妻(めあ)わす」。(「公冶長第五」2)

dsupplying.hatenadiary.jp

 桑原は、「文明諸国でも最近まで、未開地域では現在もなお、そうであるように、女子の配偶者に選択において自由意志を認められず、もっぱら父兄の意志によってめあわされた。それだけに父兄たるものは慎重な考慮を要請されたわけだが、孔子は前章とこの章とにおいて、二つの婿えらびをしている。いずれもおそらく適切な処置であったのだろうが、外面的に見ればまったく対立した選択のようにみえ、そこに面白さがある」と解説します。

 日本国内でも今なお、こうした伝統を守らなければならない家もあるのでしょうか。

 

 

 孔子は南容についてこう評します。「国が道があるときは、責任ある仕事につき、国に道がなくなっても、罪を得るようなことはないだろう」と。

 その南容は、発言の慎重さを要請した「詩経」の「白圭」とよばれる一節を好んで口ずさんでいたといいます。

白き圭(たま)の玷(か)けたるは、尚お磨く可きなり。斯の言の玷けたるは為す可からざるなり」(吉川幸次郎訳)(引用:論語 桑原武夫

 孔子は、この慎重な人物なら、乱世を無事に切り抜けるに違いないと見込んで姪を与えたのだと桑原は読んでいます。どこかの父親も同じような心境だったのでしょうか。

剛直な子路に批判された孔子の事件

「子 南子に見(まみ)ゆ。子路 説(よろこ)ばず。夫子 之に矢(ちか)いて曰わく、予の否とする所の者あらば、天 之を厭(す)てん、天 之を厭てん」と、「雍也第六」28 にあります。

 孔子は56歳の時、魯の執政の地位を捨てて、衛の国に赴いた。

時の衛の君主霊公の夫人は南子といったが、宋の国の公女で、美貌と多情で知られていたという。そういう悪評高い女性に会うことは、君子として許されるべきであるどうか。生真面目な子路がむくれたのも、ゆえなしとしないという。そして、孔子は、自分は誓ってミスは犯していないと答えたのである。(出所:論語 桑原武夫

dsupplying.hatenadiary.jp

孔子が南子と馬車をつらねてドライブした説もあるそうで、剛直な子路が怒ったのも無理はない。弟子の子路に公式主義的に詰問されて、孔子が自分にもし落ち度があったとするならば、天が私を見放すだろう、と誓ったというのは、いまの常識としては受け取りにくい。まあ、いいじゃないか、というべきところに、そう軽々しく天を引き合いに出していいものだろうか」と、桑原が解説する。

 ものごとあまり形式主義的に捉えずに、その意をくんでくれと孔子は、子路に言いたかったのでしょうか。 剛直な子路が勝手に想像を膨らまし、要らぬ嫌疑を孔子にかけ、その上批判したのであれば、孔子もたまったものではなかったのでしょう。「予の否とする所の者あらば、天 之を厭(す)てん」というのもわかるような気がします。

 

 

守るべき伝統とは

「礼と云い、礼と云う。玉帛(ぎょくはく)を云わんや。楽と云い楽と云う。鐘鼓(しょうこ)を云わんや」と、「陽貨第十七」9 にあります。

「礼式、礼式、とやかましく言うが、大切なのは、並べる玉、帛であろうか。同じく音楽、音楽、とやかましく言うが、大切なのは、並べる鐘、鼓であろうか」と、訳されます。

dsupplying.hatenadiary.jp

 礼にしろ、楽にしろ、そこで用いる道具も重要であることにちがいなのであろうけれども、大切なことは質であるということなのでしょう。元々、礼が存在するのは、みなが不愉快な思いをしないよう守るべき規範のためではないでしょうか。そして、その例を引き継いでいくことが伝統の継承につながり、伝統を重んじるということになるのではないでしょうか。

 BBCが、「際立つ女性皇族の困難さ」といいます。

眞子さんと小室圭さんが結婚 「自分たちの心に忠実に」 - BBCニュース

眞子さんの祖母の上皇后美智子さまは20年ほど前、天皇の妻にふさわしくないなどとメディアで批判され、一時的に声が出なくなった。眞子さんの伯母にあたる皇后雅子さまは、「お世継ぎ」の男子を産んでいないと責める言説によって適応障害になった。

皇室の女性にはいくつかのことが厳しく求められる。

夫を支える、男子を産む、日本の伝統を守る。それらができなければ、酷なまでの批判が浴びせられる。

眞子さんは結婚によって、皇室の一員でなくなることが決まっていた。それでも同じ厳しい目が向けられた。そうして眞子さんと小室さん、2人の結婚に対する非難はやむことがなかった。(出所:BBC

 象徴たる天皇家、宮家の役割はこうしたことなのでしょうか。

「これはこうすべき」と過度に要求すれば、それは形式主義になってしまいます。そうなるようであれば、存在意義も危ぶまれそうな気がします。そうでなくして、象徴として、「徳」を示していただくほうがよいのではないかと思っています。

 気がつけば、政治の世界を筆頭に、あちこちらで不適切な言葉で、相手を容赦くなく批判するケースが増えているように思います。そして、こうしたことで現実、傷つく人たちがたくさんいます。それなのに一向に改善に向かう様子はありません。

 そうなっているからかでしょうか、日本人の象徴たる天皇の存在が重要になっているのではないでしょうか。発言に制約もあり、ご苦労もあろうかとは推察しますが、この状況を憂慮していると伝えて頂くのもよいことではないでしょうか。