「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

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【天 徳を予に生ぜり。桓魋 其れ予を如何せん】 Vol.172

 

子曰わく、天 徳を予(われ)に生ぜり。桓魋(かんたい) 其れ予を如何せん(「述而第七」22)

  

(解説)

孔子の教え。天はこの私に世を徳化する資格をお与えになったのだ。桓魋ごときが、いったいこの私をどうすることができるであろうか。論語 加地伸行

 

桑原の解説。

桓魋は姓は向(しょう)、名は魋である。宋の桓公の一門なので桓魋と呼ばれたという。当時宋の重臣で、司馬つまり軍司令官であった。孔子が巨樹のもとで弟子たちと礼の儀式の稽古をしていたとき、なぜか孔子に反感をもった桓魋が孔子を殺そうとして、その巨樹を引き抜かせたという。弟子たちが危険を恐れて、先生早くお逃げなさいといったときに、孔子がこの言葉を洩らしたのだと「史記」の「孔子世家」にあるという。

  桓魋が武器をもって孔子を刺せばよいものを、ことさら樹を抜いたのはなぜかと考えて、簡野道明は、聖人殺害の悪名を恐れ、樹を倒して孔子が自然に圧死したように装おうとしたのだと、解しているが、それは近代合理主義にすぎるという。そこに古代信仰が絡んでいて、孔子たちが尊んでいたであろう巨樹を倒すことによって、これに一つの冒瀆を加えようとの意があったものとみたいという。

 

 

 孔子の言葉の内容は、天は私に徳を生みつけた。つまり、私が徳を備え道を説く素質を与えた。それは、天の私に与えた使命である。桓魋のような一軍人が、私に何を為し得ようというのか。使命観への確信の表明である。

 

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 徂徠は「孔子の辞気に非ず」、つまり孔子がこんな威張った物の言い方をするはずがないとして、「徳」という字を有徳者とよみ、孔子は英才教育にあたるように命ぜられているのだから、簡単に死ねない、という意味に解している。孔子は自信をもってはいたが、聖性をもっているなどと自認するはずはないという。一説である。 

 

 

 孔子は、ただ、先生早く早く、慌てふためく弟子たちを、落ち着かせるために、お前たち何を慌てるか、わしはそう簡単に死にはせぬ、天命を受けているからな、と泰然として語りつつ、静かに歩み去ったのであろうと、桑原はいう。

 

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加地は、補足でこんな解説をする。

「徳」は「得」すなわち得たものである。孔子は他者に道徳的感化を与えることを方法としていたので、孔子自身に他人を感化できる優れた道徳性がなくてはならない。そこで他者を徳化できるもの、すなわち徳が自分にあるとした。

 この徳は「世を指導する、徳化することができる資格」に相当する。この思想を延長すると、現実政治の中心者である王もまた人々を徳化する人格がなくてはならないとする政治思想となる。すなわち、人間を徳化できる人格者を第一とし、それが現実政治に実現されると、真の王たるべき王となり王道が生じる。しかし、人間には運命というものがあり、人間を徳化できる人格者であっても、現実政治における王になることができないことがある。そういう場合、現実の王すなわち「実」王に対して、思想的、観念的な王すなわち「素」王という。この「素王」にあたるのが孔子であるとする思想が、のちに生まれてくることとなるという。

 

(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

  
論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)

  • 作者:桑原 武夫
  • 発売日: 1985/12/01
  • メディア: 文庫