子、匡(きょう)に畏(おそ)る。
顔淵 後(おくれ)たり。子曰わく、吾 女(なんじ)を以て死せりと為す、と。
曰わく、子在(いま)せり。回(かい)何ぞ敢えて死せん、と。(「先進第十一」21)
(解説)
孔子一行が匡の地で危機に陥ったことがあった。
顔淵が遅れていて、やっと追いついた。孔子は顔淵にこう言った。「私はお前があの難で生命を落としたのかと思った」と。
すると顔淵はこう答えた。「先生がいる以上、どうして私が先に生命を捨てるようなことがありましょうか」と。」(論語 加地伸行)
「子在せり。回 何ぞ敢えて死せん」
顔淵の孔子に対する想いを示した一章ということであろうか。
この匡で危機に陥った話は、「子罕第九」5にもある。「天命」についての章であった。
「天の未だ斯文を喪ぼさざるや、匡人(きょうひと)其れ予を如何せん」(「子罕第九」5)
陳の国、匡という地で陳、蔡の軍に取り囲まれ、孔子一行は危機に陥る。孔子が「陽虎」という人物に似ていることで間違えられたことが発端のようであった。魯の国を牛耳っていた季氏の家臣であった「陽虎」は匡の人々に恨みをかっていたのだろうか。
この窮地にあって、孔子は、天が自分に崇高な使命を与えているのだから、そう簡単に死ぬはずがないと思ったのだろうか。それは、「天命」の自覚の瞬間であったのかもしれない。また、それがさらに自信を高めることになったのかもしれない。
この時、孔子一行は楚軍に助け出されたという。
「述而第七」22にも同じようなシーンがある。
「天 徳を予に生ぜり。桓魋 其れ予を如何せん」(「述而第七」22)
宋の重臣で、司馬、軍司令官であった桓魋が孔子を憎み、殺そうとし、孔子一行が大樹の下で礼楽の練習をしているときに、その樹を倒したという。
同じような窮地にあって、孔子は泰然とし、「天は私に徳を生みつけた。つまり、私が徳を備え道を説く素質を与えた。それは、天の私に与えた使命である。桓魋のような一軍人が、私に何を為し得ようというのか」という。
慌てふためく弟子たちを落ち着かせるために、「お前たち何を慌てるか」、「わしはそう簡単に死にはせぬ、「天命」を受けているからな」と語りつつ、静かに歩み去ったと、桑原はこのシーンを解説する。
「為政第二」4で、孔子は「五十にして天命を知る」といっている。魯の政治を壟断していた御三家を打倒しようとして果たさず、56歳以後放浪の旅に出る。こうした経験を通して、その運命を悟り、確信に至ったということであろうか。
そんな孔子の信頼を一身に集めた顔淵。顔淵自身も、もしかしたら他の弟子以上に孔子に対して、強い信頼を持っていたのかもしれない。
(参考文献)