「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

【才も不才も、亦各々其の子と言う。鯉や死せしとき、棺有るも椁無かりき】 Vol.264

 

顔淵死す。顔路(がんろ)、子の車以てこれが椁(かく)を為(つく)らんと請う。子曰わく、才も不才も、亦(また)各々其の子と言う。鯉(り)や死せしとき、棺有るも椁無かりき。吾 徒行(とこう)もてし以て之が椁を為るをせざりしは、吾 大夫の後(しりえ)に従い徒行す可からざるを以てなり、と。(先進第十一 八)

 

  (解説)

「顔淵が亡くなったときのことである。父の顔路が孔子にお願いしたのであった。「貧乏なもので、孔子の車をいただき、それを売って椁を作りたいのですが」と。孔子はこう答えた。「器量があろうとなかろうと、それぞれその子について十分なことをしてやりたいと思う。私の場合、鯉(り)が亡くなったとき、棺(うちかん)は準備したものの椁(うわひつぎ)は準備できなかった。そのとき私は、徒歩で逝くことにして、車を処分して椁を作るということをしなかったのは、すでに私は、大夫の待遇を受けており、車に乗らず徒行で出入りするわけにはいかなかったからである」と。論語 加地伸行

  

 孔子より6歳年下の顔路は、顔淵の椁を準備できなかったのであるから、貧しい層に属していたと考えられると加地は指摘する。事実、子の顔淵の生活は貧しかった。孔子に対する顔路の願い出は、いくら孔子が顔淵を愛していたとしても、厚顔である。そういう無遠慮な願い出ができたのは、孔子と顔路とが血縁関係にあったからではなかろうかと加地はいう。孔子の母は顔徴在(がんちょうざい)という。母の姓である顔氏を通して血縁的なつながりがありそうだと加地は推測する。顔淵に対する孔子の愛情には、弟子としての隅しかた以上のものがある。孔子と顔淵との血縁関係を示す資料はないと加地はいう。

 三千と称せられた多数の弟子のうちで、どうして孔子はこの顔淵一人をこのように重視したのだろうかと、桑原も疑問を投げかける。「論語」を読んでいる限りでは、顔淵はどういう点が偉かったのか具体的にほとんどわからないという。子路などのような目立った行動はほとんど伝えられておらず、何もしないところが偉いかのようである、ただ孔子が彼を熱愛し、彼もまた「子在(いま)すに、回何ぞ敢えて死せん」(「先進第十一」22)と献身を誓うのであるという。そこであまりにも孔子の愛情を独占した顔淵に対する嫉妬は孟子から貝塚氏に至るまで衰えることがないと桑原は指摘する。

 

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 孔子は70歳で祖国の魯に帰ったとされる。その後、孔子は現実の政治にはかかわらなかったが、大夫格の国老として遇されたという。

 「鯉」は、孔子の子で字は伯魚。孔子70歳のとき、50歳で没したとされる。顔淵の死はその翌年とされる。鯉はあまりできが良くなくて、「不才(鈍才)」とされている。孫の子思(しし)は俊才で、孔子の晩年の弟子である曾子について学び、「中庸」を著わしたとされている。

  

 寵愛した顔淵の死に際し、孔子は特段厚遇することなく、当時の「礼」に従って彼を葬ったということであろうか.....

  

 

(参考文献)  

論語 増補版 (講談社学術文庫)

論語 増補版 (講談社学術文庫)

 
論語 (ちくま文庫)

論語 (ちくま文庫)

  • 作者:桑原 武夫
  • 発売日: 1985/12/01
  • メディア: 文庫