「論語を現代に活かす」 時代を超えて読まれた名著

未来はすべて次なる世代のためにある

【追悼の意】続くショッキングな出来事に悲しみが止まりません

 

 大阪で痛ましい事件が起き、多くの方が亡くなられました。ご冥福をお祈りいたします。

 この事件では、容疑者の氏名が逮捕前に公表となりました。凄惨な事件なだけに、被害者や被害者家族に配慮してのことといいます。早期の真相解明につながっていって欲しいと願うばかりです。

  また著名人の訃報がニュースとなっています。こちらもたいへんショッキングなニュースです。お悔やみ申し上げます。

 

 

 人の死について書くことは勇気がいります。

 正直に言えば、知人が亡くなれば、その死を受けとめることができません。また葬儀に参列することはあまり得意になれず、自分の不仁なるところを感じます。悲しみに耐えきれず、悲しみをともにすることがうまくできません。大学時代の仲のよかった友人が自殺したことが、いまだに尾を引いているのかなと時々思います。大変ショッキングなことでした。

「顔淵死す。顔路(がんろ)、子の車以てこれが椁(かく)を為(つく)らんと請う。子曰わく、才も不才も、亦(また)各々其の子と言う。鯉(り)や死せしとき、棺有るも椁無かりき。吾 徒行(とこう)もてし以て之が椁を為るをせざりしは、吾 大夫の後(しりえ)に従い徒行す可からざるを以てなり」と、論語「先進第十一」8 にあります。

 この章は、喪礼はその本分を守り、虚飾に流れぬ様にしなければならない事を教えたものと渋沢栄一が解説しています。

 

 

 自分の後継者と思っていた顔淵の死に、非常に愛惜せられたけれども、顔淵の父、顔路がそれなりに弔いとの請を容れずに、これを諭したといいます。場合に依っては、節度を失うという事は愛嬌に見える事もあるが、それは決して立派な行為とは言えない。孔子はその一生を通じて喜んで喜び過ぎたり、また悲しみ過ぎて、我れを忘れるような事はなかったそうです。

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 孔子はその節度が人情に適し、情に駆られて余り愛し過ぎたり、また悲しみ過ぎたりするような事はせず、些末の事にも深く注意を払っていたそうです。

 現代の人々は、概してこの節度を失い易い。物事には総てこの節度を忘れてはならないと、栄一はいいます。

論語の教え

「顔淵死す。子 之を哭(こく)して慟(どう)す。従者曰わく、子 慟せり、と。夫の人の為に慟するに非(あら)ずして、誰が為にせん」と、「先進第十一」10 にあります。

 顔淵が亡くなり、弔問に行った孔子は、声をあげて泣いたのみならず、身体を揺り動かして気絶せんばかりに哀しんでいたと、付き添っていた弟子がいった。「先生は哀しみ過ぎられ、身もだえしておられました」と。すると孔子はこう言った。「あの人のために慟(哭)しないで、どの人に対して慟(哭)しよう」との意味です。

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 論語にある顔淵の死について、読み直してみると、悲しみの受け止め方を少し理解できるような気がします。これも父の死という経験があってのことなのかもしれません。ごく自然に悲しみ、そして、節度をもって処していく。そこに論語が説く「仁」があるのかもしれません。

 ショッキングな出来事があると、それを模倣するケースがあるように思われます。そうしたことがなくなっていくことを願わずにいられません。

 ここに改めて、哀悼の意を表します。