日本の歴史の中の天皇と、ご自身の象徴天皇という新たな立場も加わり、相当に悩まれたことと推測できます。
林放礼の本を問う。子曰わく、大いなるかな問いや。礼は其の奢らんよりは、寧ろ倹せよ。喪(そう)は其の易(おさ)まらんよりは、寧ろ戚(いた)めよ、と。(「八佾第三」4)
(意味)
「林放が礼学の根本とは何ですかと質問した。「とてもいい質問だ。儀礼を行なうとき本来のありかたとしては、派手にするよりも質素にすることだ。喪礼のときも同じく、行き届き過ぎるよりも、哀しみで段取りがズレるほうがいいのだ。」と。」(論語 加地伸行)
「林放」、「史記」弟子列伝に見えないので、孔子の弟子であったかどうかは不明だという。
明仁天皇は、それまでの慣習を止め、子育てを自分でなされていたと聞く。より国民を理解するうえでもとのお考えがあったようだ。
それまでの色いろな慣習を変える。天皇の地位にあることを甘んじることなく、「国民の象徴」としてどうあるべきかを模索されていたように思う。
礼は其の奢らんよりは、寧ろ倹せよ
「礼」を重んじる。 明仁さまにそんな生き方を見る気がする。
(参考文献)