子 喪有る者の側(かわら)に食するとき、未だ嘗(かつ)て飽(あ)かず。子 是(こ)の日に於いて哭すれば、則(すなわ)ち歌わず。(「述而第七」9)
(解説)
「孔子は、葬儀のあった家で食事をされたとき、けっして満腹されなかった。また、弔問された日は、楽器を奏したり、歌ったりされなかった。」(論語 加地伸行)
桑原の解説。
孔子は人間的なやさしい心の持ち主であった。憐みの感情を持つが、それを直接態で表出するのではなく、礼法にかなうようにして表現するのが、孔子の尊重した文化主義であろうと指摘する。
ここに示された孔子の態度は、けっこうであるが、今の私たちからみると、まったく当たり前のことである。さすが孔子様だ、というほどのことはないという。
どうしてこういう章が特に書かれたのだろうか、おそらく、孔子の生きた時代は殺伐な乱世であって、礼法の定めはあったが、形骸化しあるいは無視されていたのであろう。
私にとって興味があるのは、孔子が弔問の日には歌わなかったと特記されていることである。つまり、ほかの日は歌っていたということになる。彼は歌が好きで、いい歌を聞くと、もう一度反復させたあとで自分も合唱した、という記録があるという(「述而第七」31)。
訪客に面会を拒否した孔子が、立ち去る相手に聞こえるように琴をならして歌をうたった話もあるという(「陽貨第十七」17)。陳蔡の間で囲まれた食糧にもことかいた危機にも、彼は琴をひいていたという。
孔子はおそらくいつもどおり「詩経」の歌を口ずさんでいたのであろう。彼は、むつかしい顔をして机にばかり向かっていたわけではないという。むしろ、ゆったりとした着物に風をはらませて、低唱微吟しつつ、散策することが多かったのだろうという。私たちももう少し歌をうたいたいと、桑原はいう。
桑原の時代にはカラオケはなかったのだろうか。
カラオケが当たり前になった今は、礼法が尊ばれるのかもしれない。
(参考文献)