子張(しちょう)曰わく、士は危うきを見ては命を致(いた)し、得(とく)を見ては義を思い、祭りには敬を思い、喪(そう)には哀(あい)を思う。其れ可なるのみ。(「子張第十九」1)
(解説)
子張の言葉。「できる人物は、国家が危急のときは生命を投げ出してあたり、利益を得るときは正当かどうかを判断し、祖先などの祭祀のときは敬(つつし)を尽くし、喪儀のときには、哀しみをこめる。こうあってこそだ」。(論語 加地伸行)
「子張」、姓は顓孫、名は師、字名が子張。陳の人で、孔子晩年の弟子。もっと若く秀才といわれる。「礼」の専門家。「史記」に、「師や僻なり」とあるように、時として正統を離れる異説を好んだようであるという。
人となり才が高く、意が広く、人の感情などに拘らないところがあったという。子路、子貢に次いで登場回数が多く、それだけ影響力もあったのだろうか。
東京都の「休業命令」に従わないと表明したグローバルダイニング社が黒字転換したという。
「得を見ては義を思う」、その利益は義にかなっているのか。
立法、行政に間違いがあって、それを正そうとするのであれば、そこに「義」はあるのかもしれない。 一方で、義務に反する行為に「義」はあるのだろうか。
自らの店舗でクラスター発生がないとの自負があるのであれば、それを業界に浸透させ、コロナ感染拡大の防止をリードし成果があれば、主張の正しさに理解を得ることもあるのだろう。他者に迷惑をかけてでもあげる個社の利益なのか、それとも業界をリードし業界が協力してあげる利益なのか、その行為は国全体の利益に適っているのか。
もしかしたら「義」にも大きさがあるのかもしれない。
「利に放(よ)りて行えば、怨み多し」(「里仁第四」12)
利を欲しいままにすれば、怨みも多くなる。
「利とは義の和なり」、利とは公益・公利、社会・国家のためとする説もあるという。
私利私欲はわがままであり、義に反するが、その私利私欲が公益・公利と一致するようにすれば、義に適うのかもしれない。
「関連文書」
(参考文献)